日本初の征夷大将軍と言えば、言わずと知れた坂上田村麻呂である。坂上田村麻呂が活躍した8世紀、朝廷は陸奥国で猛威を振るっている蝦夷に頭を悩ませていた。朝廷軍は阿弖流為(アテルイ)率いる蝦夷軍と激戦を繰り返しており、坂上田村麻呂は副使として軍団に参加していたが、のちにその腕を買われ、征夷大将軍となるのである。
坂上田村麻呂ルーツは百済から渡来した「東漢氏」だ。古代日本では渡来人は高度な文明をもたらすとして、大変重宝されていた。坂上氏と称した田村麻呂の一族は武勇に秀でた一族として発展し、桓武天皇の時代には朝廷内でも確固たる地位を築いていた。
この桓武天皇であるが、律令政府による中央集権を理想に掲げており、東国征討はその一環であった。坂上田村麻呂は桓武天皇の悲願を叶えた英雄ということなのだ。
坂上田村麻呂の宿敵は蝦夷の阿弖流為と母礼(モレ)だ。彼らは弓矢や馬を巧みに使い、少数精鋭部隊を編成し先の遠征軍を尽く打ち負かしていた。坂上田村麻呂は征夷大将軍に任命されると、兵を率いて阿弖流為らに挑んだ。そして胆沢郡(現在の岩手県水沢市)を奪取することに成功したのだ。残念な事に、どのような戦法を使って阿弖流為を降伏させたのか記す文献はほとんど残っていない。坂上田村麻呂が神格化していく要因の一つが資料不足というわけだ。
兎にも角にも、延べ20万近い人員をもってしても倒す事のできなかった阿弖流為と母礼を、たった4万の兵で打ち破ったのだから、人々の賞賛たるや計り知れないものがあったのだろう。降伏ののち、阿弖流為と母礼は平城京へ運ばれるのだが、渡来人にルーツを持つ坂上田村麻呂は彼らを寛大な心で受け入れようとした。阿弖流為たちを助命にし、仲間達に降伏するよう促そうとするのだが、他の貴族たちがこれを許さず、二人とも処刑されてしまうのである。
このエピソードから察するに、坂上田村麻呂が蝦夷平定の偉業を達成できたのは力でなく心で相手に訴えかけたからではなかろうか?
偉業を成し遂げ、毘沙門天の化身と謳われた坂上田村麻呂には数々の伝説が残った。史実とはかけ離れたところであらゆる伝承と融合していったのだ。
蝦夷にまったく関係ない鬼退治などもある。代表的な「田村草紙」では坂上田村麻呂は伝説上の女性、鈴鹿御前討伐を命ぜられ鈴鹿山に遠征する。ところが鈴鹿御前と夫婦仲になってしまい、共に鬼神を倒し天下に平和をもたらすというのである。この物語を軸として御伽草子や浄瑠璃に発展していくのだが、中でも奥州の悪路王に戦いを挑むエピソードは興味深い。悪路王は坂上田村麻呂や藤原利仁(平安時代中期の貴族・武将)と戦う敵として登場する。悪路王の名が登場する最も古い文献は鎌倉時代の「吾妻鏡」である。源頼朝が平泉を平定し、その帰路で目に留まった山について従者に訪ねたところ、それは坂上田村麻呂と戦った悪路王が要塞を構えた岩屋だと答えたというものだ。
坂上田村麻呂が戦った相手といえば阿弖流為のことになる。つまり、悪路王は阿弖流為と同一人物ということだ。いつから阿弖流為が悪路王と同一人物として一般化したかは未だ謎であるが、これを裏づける資料として、茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮の宝物館に悪路王の首と首桶が展示されている。説明書きには、坂上田村麻呂が倒した悪路王(阿弖流為)の首を江戸時代に木製で復元奉納した、と記されている。鹿島神宮は近くの香取神宮ともども蝦夷に対する大和朝廷の軍事的守護神を祀った前線基地であった。悪路王の首を鹿島神宮に納めるということは、敵方を弱体かさせる為の一種の呪詛であるのだ。
近年、阿弖流為が再評価される様になり、阿弖流為、または悪路王を題材にした様々な創作活動が行われている。坂上田村麻呂と阿弖流為の伝説は現在も生き続けているのである。
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(山口敏太郎 ミステリーニュースステーション・アトラス編集部)