白山には、東洋大学創設者である井上円了の銅像が鎮座している。円了は哲学者として評価の高い人物であるが、お化け博士の異名をとっている。彼は迷信や妖怪霊魂の存在を否定するために、各地の妖怪談や幽霊談を集めた。結果、幕末から大正にかけての貴重な怪異談が保存されることになった。実は円了は妖怪や霊魂の存在を否定はしていたが、その話自体は好きだったようである。
1858年(安政5年)2月、円了は越後国長岡藩(現在の新潟県長岡市)にある真宗大谷派の慈光寺の住職の息子に生まれる。幼名を岸丸といって、襲常を経て円了と改名するにいたる。父の名は、円悟、母の名はイクといった。10歳の時に明治維新を体験しており、官軍の前に長岡藩が徹底に打ち破られた惨状は、円了少年の心にしっかりと刻まれたと推測される。
その後、石黒塾にて漢学を学び、つぎに洋学校で洋学や英語などを学ぶ。16歳で長岡洋学校に入学し、更に新潟英語学校を経て1877年、25名の秀才が選ばれる京都・東本願寺の教師学校に入学することが出来た。ここでも円了の秀才ぶりは目をひき、翌年の1878年、東本願寺の給費留学生に選ばれて上京し、東京大学予備門に入学した。その後、創立間もない東京大学に入学し、ギリシャを発祥の地とする「哲学」と出会い、その研究に没頭する。文学部哲学科で猛勉強に励んだ円了は、1885年卒業したが、この年哲学科で卒業したのは円了一人であった。
卒業後は、僧籍にも役人にもならずひとりの俗人として生きる決意をした円了は著述活動を開始する。卒業の翌年、吉田敬子と結婚した円了は、東京本郷に新居を構え、哲学の研究や著述活動に邁進する。
その研究過程に「真理は哲学にある」ことを確信した円了は、 哲学の普及により日本人の新しいものの考えたや見方の構築が可能になると思い、1887年(明治20年)に「哲学館」を創立した。
この「哲学館」は、「哲学会」「哲学会雑誌」の発行を行っていた盟友・棚橋一郎と共に創立したものであり、「哲学館大学」を経て現在の「東洋大学」と繋がっていく。円了はこの「哲学館」の設備や費用をまかなうために、全国を巡回しながら、各地で講演を行った。
大正8年6月6日、中国各地での講演旅行の一環で、大連を訪問。同地での講演中に卒倒し、そのまま永眠した。享年62歳であった。
このように哲学者として活発に活動した円了であるが、明治の知識人たちが、無知な庶民の問題として無視した「妖怪」「幽霊」「迷信」に真摯に取り組んだのは評価ができる。円了の行ったオカルティズムを徹底排除した、科学的分析は明治の日本に大きな影響を与えた。
そもそも円了が「妖怪学」というものに携わったのは、「不思議研究会」の活動からである。この「不思議研究会」という研究団体には、東京大学の多くの研究者が名を連ね、活発な活動が行われていた。活動内容は、各地に伝承される幽霊、狐狸、天狗、予言等の資料を収集し、これら事例についての会メンバーが理解、その原因を研究するというものであった。
これらの活動の延長線上の著述として円了は『妖怪学』の考え方を、『妖怪学講義』など表明している。科学では説明できない妖怪を「真怪」、自然現象による妖怪を「仮怪」、人間の誤認による妖怪を「誤怪」、人間が人為的に創った妖怪を「偽怪」と分類し、妖怪の正体暴きに貢献した。
最も興味深い分析は『哲学界雑誌』にて、不思議庵主人というペンネームで寄稿した“コックリさん”の解明研究である。「(コックリさんは)人の潜在意識を反映し、無意識に筋肉運動起こすことにより起こる現象」とバッサリ切り捨てている。
だが、あまりにも迷信や妖怪を否定したがために、手痛いしっぺ返しを受けた事もある。明治28年に「哲学館」の新校舎を作る際に、敢えて鬼門に便所を作った。風水など迷信で意味はないと主張したかったのだが、実際に火災が起きてしまい迷信を立証することになった。この時はさぞ円了はくやしがった事であろう。
江古田にある哲学堂の後は、公園となっており、円了の活動の残像を讃えている。
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーション・アトラス編集部)
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