源義経=ジンギスカン説は、英雄不死伝説の典型的なパターンであり、衣川の合戦で死んだはずの義経とその一側近たちが大陸に渡り、モンゴル帝国を打ち建てたという壮大な”とんでも伝説”である。
今でこそジョークのように話される伝説だが、江戸時代には林羅山や新井白石が真剣に検討したテーマでもあった。この問題には、大日本史を編纂していた水戸光圀も興味を持っており、蝦夷に探検隊を派遣するなどを現地調査をしている。
事実、アイヌに伝わるオキクルミ伝説には源義経を連想させる部分がある。オキクルミそのものも別名「判官=ハンガン」と呼ばれており、非業の最期を遂げた英雄に対する信仰がオキクルミ信仰と混じりあって定着していたのかもしれない。
その後、ハンガンと呼ばれた人物はシベリア、樺太へと渡ったと言われており、この伝承が義経生存伝説に大きな影響を与えた。確かにアイヌとオホーツク文化は関連が深く、ヤマトからの逃亡者がアイヌの有力者の力を借りて、大陸に渡る可能性はありうると思う。江戸時代に著述された沢田源内の『金史別本』という文献の援護射撃もあってか、が義経=チンギスカン説は江戸時代を通じて広く浸透していった。
そもそも衣川の合戦で自害した義経の首が、鎌倉に届くまでなんと43日も掛かっており、義経の首が鎌倉に届いた6月13日には首の腐敗が酷く、本当に義経の首なのか判断がつかなかったという事から、義経生存説は生まれている。義経には杉目小太郎という影武者がおり、この人物の首ではないかと当時から疑われたようだ。
東北には平泉から逃走した義経一行の足跡が各地に残されており、神社や史跡として現存している。「逃避行なのに目立ち過ぎだろう!」というツッコミも入れたい気持ちも沸いてくるが我慢しよう。
義経=ジンギスカン説の根拠は、幾つかある。まず、義経とジンギスカンが同時代の人物でありながら、活躍した時期が一切かぶってない点だ。また、二人とも小柄であり、ジンギスカンはモンゴル人ではなく外国人であったという伝承がモンゴルにあるとされている点も根拠とされる。
やや強引な証拠としては源義経を音読みした”ゲンギケイ”という名前が訛って”ジンギスカン”になったとか、ジンギスカンの旗印が源氏の家紋の一つである笹竜胆に酷似しているという点もよくあげられる。さらにジンギスカンの軍が好んで白旗を用いたことも源氏の白旗と同一だとされた。
また、通常のモンゴルの兜は皮で出来ていたが、チンギスカンの鎧は鉄製であったことや、小型の弓を使うのがモンゴルの習慣であったのだが、チンギスカンは日本風の大きな弓を使ったとされていることも証拠として列挙されている。
さらにジンギスカンは、数字の「九」にこだわったが、それは義経の別名であった「九郎」に由来するとか、孫のフビライハンが建国した元という国号は、源氏の源がルーツであるとか。こじつけながらよくぞここまで集めたという状況証拠?が挙げられている。
確かに。モンゴル語は日本語と文法が一緒であり、相撲や着物、まき狩りなど似ている習慣も多く、モンゴル力士が日本に馴染んだように義経がもし大陸に渡っていたならば、モンゴルに馴染んだ可能性はあるかもしれない。
だが、この伝説の不幸な部分は、日本軍の侵略の大義名分に使われた点である。ウラジオストックにかつて「大日本源義経墓」と掘られた石碑とあったというエピソードなどは確実に軍部の情報操作の一環であったと思われる。
伝説は伝説のままで笑って楽しむのが大人の対応かもしれない。
なお、ATLASでは生存伝説のアーカイブが人気である。「天草四郎はフィリピンに逃げた!?」「西郷隆盛は生きていた!?」「関ヶ原の戦いの後、島左近は生きていた」「マイケルジャクソンは死んではいない。実は生きていた」「戦死した歌手が伊豆で生きていた? 」「ヒトラーが潜伏していたアルゼンチンのエデン」「ヒトラーは自殺していない。CIAの報告書」「永六輔は、戦後川島芳子に会った」「明智光秀=天海上人説」「大塩平八郎が死んでいない。海外に逃亡?」などがある。
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)