天保7年(1836年)、天保の大飢饉により、百姓一揆や打ち壊しが各地で頻発していた。天保8年2月19日(1837年)飢饉で苦しむ庶民のために立ち上がった正義感が、大阪町奉行所の元与力・大塩平八郎である。
真面目な大塩は、既に与力を引退していたものの、奉行所に対して再三庶民の救援を提言したが無視された。そこで真面目な大塩は豪商鴻池に掛けあって資金を用意しようとするが、これも奉行所の圧力により妨害されてしまう。
仕方なく大塩は自分の蔵書五万冊を全て売却し、得た資金を使って庶民の救済に乗り出したが、大阪奉行所からは引退した学者先生の単なる売名行為と言われてしまう。
そもそも大阪で米が不足していたのは、老中・水野忠邦の弟である大阪町奉行・跡部良弼が、大阪庶民の窮状を省みず、新将軍即位に沸く江戸に向けて、市中の米をかき集め、幕府にせっせと送っていたからだ。
このような不正を大塩が許すわけがない。
跡部の爆殺計画を建て、大筒まで導入した反乱であったが、一部の弟子の密告もあり、わずか1日で鎮圧されてしまう。せめて江戸を始め日本中に送った”檄文”の反応を見たいと、養子・大塩格之助と共に潜伏生活を送るが、40日後に潜伏先の女中の密告により居場所が判明してしまう。
大阪城代・土井利位に通報されてしまった大塩親子はピンチに陥る。土井の手勢に包囲された末、火薬を使って自爆したが、焼死体は本人と特定出来なかった。
この事実が後に大塩生存説が生まれるきっかけとなった。不気味なことに大坂、京都、江戸において大塩の挑戦状が奉行所に届いたり、大塩署名の張り紙があちこちに張られ、”大塩残党”を名乗る連中が続出し、幕府を揺さぶった。
その生存説の証拠で最も有力なものは、秋篠昭足墓(龍淵寺)にある碑文である。その碑文には「秋篠氏は平八郎の縁者であり、乱の謀議にも参加した。
乱の後は、平八郎ら同志12人とともに河内に逃走し、大塩父子はその後、海路で天草島に渡航し潜伏、清国を経てヨーロッパに至った」というストーリーが記されているのだ。
このような”大塩生存の噂”は幕末まで続き、アメリカのモリソン号に大塩が乗って攻めて来るという流言が庶民の間で流れた。数年前に筆者が購入した宮武外骨が大正期に出した本には「あまりに庶民が大塩生存説を唱えるので、奉行所は一度埋めた大塩父子の遺体を掘り起こし、市中引き回しにした」と書かれていた。
大塩は死んだ後も幕府を震撼させたのだ。
なお、ATLASでは生存伝説のアーカイブが人気である。「天草四郎はフィリピンに逃げた!?」「西郷隆盛は生きていた!?」「関ヶ原の戦いの後、島左近は生きていた」「マイケルジャクソンは死んではいない。実は生きていた」「戦死した歌手が伊豆で生きていた? 」「ヒトラーが潜伏していたアルゼンチンのエデン」「ヒトラーは自殺していない。CIAの報告書」「永六輔は、戦後川島芳子に会った」「明智光秀=天海上人説」「源義経はジンギスカンになった?」などがある。
(山口敏太郎 ミステリニュースステーションアトラス編集部)