
島 清興(嶋 清興、しま きよおき)は、戦国から安土桃山にかけての武将であり、島左近の名前で一般的には知られている。戦国大名の筒井順慶に仕え浪人した後、石田三成に召し抱えられた。筒井氏を支えた有能な人物と言われたが、石田三成の熱心な誘いにより三成を主君に選んだ。
その事は当時の歌にも歌われており、「治部少(ちぶしょう=三成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」とされた。島左近を召し抱えた時、石田三成の石高は4万石、そのうち1万5千石を左近に与えだと言うから、その評価がいかに高かったがわかる。
1600年に勃発した天下分け目の関ヶ原の合戦において、東軍の黒田勢や細川勢と交戦、銃弾を受け討ち死にしたとされている。「関原軍記大成」によると、黒田長政配下の鉄砲隊菅六之助に撃ちとられたとされている。一方「戸川記」によると島左近を討ちとったのは、加藤嘉明の配下戸川達安であると記録されている。
しかし、島左近の首も遺体も発見されてまず、当時から生存説が唱えられていた。「石田軍記」という書物には「左近落行きし」 と言う記述が見られる。果たして本当に島左近は関ヶ原の合戦で討ち死にしたのであろうか。それとも合戦後も、どこかで生き残っていたのであろうか。
島左近生存説のいくつかを紹介しておく。東広島市西条の酒造メーカー・白牡丹は創業が延宝三年とされており、創業家の島氏は左近の末裔だと言われている。さらに静岡県で百姓をしていたと言う伝承も残されており、作家の隆慶一郎は静岡まで取材に行っている。
また、京都市上京区の北野天満宮から歩いてすぐの立本寺の墓地に島左近の墓石が残されている。墓碑などには「寛永九年六月二十六日島左近死去」という記述があり、関ヶ原の合戦後30年以上も生存したことになる。同寺にて左近は僧侶として余生を送ったと言われている。これまた事実、合戦の後京都では「左近を見た」と言う話がいくつかささやかれた。
九州・対馬の島山にも島左近の墓と言われるものが残されている。実を言うと対馬には島左近は対馬の出身だと言う伝承も残されているのだ。さらに鎌倉光明寺にて出家し、敵方であった細川忠興に仕えたとも言われている。
このように島左近生存伝説は、各地に残されているが、それだけ島左近と言う人物が人々から愛されたと言うことであろうか。実際には島左近本人ではなく、生き残った一族郎党が各地に散らばった結果ではないだろうかと筆者は推測している。
なお、ATLASでは生存伝説のアーカイブが人気である。「天草四郎はフィリピンに逃げた!?」「西郷隆盛は生きていた!?」「マイケルジャクソンは死んではいない。実は生きていた」「戦死した歌手が伊豆で生きていた? 」「ヒトラーが潜伏していたアルゼンチンのエデン」「ヒトラーは自殺していない。CIAの報告書」「永六輔は、戦後川島芳子に会った」「明智光秀=天海上人説」「源義経はジンギスカンになった?」「大塩平八郎が死んでいない。海外に逃亡?」などがある。
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)