歴史好きなら当然、天海上人が徳川家康のブレーンであり、膨大な知識を駆使して徳川幕府の基礎を構築したことも知っているだろう。また、天海が死んだはずの明智光秀であったのではないかという話も流布されている。
この天海上人=明智光秀説の根拠はなかなか興味深い。まず、その死の様子を検討してみよう。表向きでは明智光秀は山崎の合戦で敗れ落ちのびる最中に、落ち武者狩りの土民の竹槍によって命を落としたとされているが、土民が光秀の首を秀吉の陣営に持参したのは三日後であり、腐敗が激しく本人かどうか確認がとれなかったとされている。
また、違う説では光秀の首とされるものは三体あったとか、土民の竹槍で深手を負った光秀は、家臣に自らの首を討たせ、その首は付近の竹薮に埋められたとも坂本城まで持ち帰ったとも言われている。結局、その死は明確ではなく、光秀生存説は可能性としては十分にありうるのだ。
他にも随筆『翁草』には、あくまで影武者が小栗栖で死んだのであって、光秀本人は美濃山中で生き延びていたという。また、関ケ原の合戦に生き延びていた光秀が老骨に鞭打って参戦しようとしたが、途中川で落水し溺れて死んでしまったという伝説も残されている。
不可解なのは、比叡山にある灯篭に「慶長二十年二月十七日、奉寄進願主光秀」と刻まれたものが残っている点である。遺族が光秀の供養を願って奉納した可能性や、同じ名前の違う人物の奉納である可能性もあるが、大変気になる石灯篭である。
万が一光秀が生存していたとしても、それが天海足りうる可能性は残されているのだろうか。天海は1588年に家康と出会っているが、この時に二人は人払いをしてまるで旧知の仲のように親しく語り合っていたというのだ。天海=光秀ではないにしても、少なくとも天海の正体は、家康旧知の人物と言って過言はないだろう。もし、天海が家康が知る明智ゆかりの人物だとしたら、大坂冬の陣や夏の陣で完膚なまでに豊臣家を江戸幕府が叩いたのは、豊臣家に対する徳川・明智の恨みではなかったのであろうか。
それに天海の前半生の経歴が全く明らかになっていない。あれほどの高僧である。30代や40代で名前が轟き渡り、その名が各種文献に残されていてもよいはずである。よしんば大器晩成型の高僧であったとしても、本人が不動院入山以前の経歴を語ることをあまりしなかったとされているのだ。何か語れない理由があったのであろうか。また、天海と光秀は同じ時期に歴史の表舞台には出てこない。つまり、同一人物がこの二役を演じることはタイミングとしては可能なのだ。
また家光の乳母に採用され、後に江戸幕府で権勢を誇った春日局は、光秀の甥で重臣でもあった斉藤利三の娘である。つまり、光秀の縁者が次期将軍の乳母になっているのだ。光秀が単なる謀反人であったとしたら、その身内を将軍の養育係に採用するであろうか。幕府設立の立役者の身内だったからこそ、採用したのではないか。
また、これは偶然かもしれないが、三代将軍家光の名付け親は天海であったと言われており、家光の「光」という文字は、光秀の「光」からとられたとも、二代目将軍秀忠の「忠」も文字と組み合わせると「光秀」になるのは、光秀が幕府設立に寄与していたという天海のメッセージであるとも言われている。
さらに日光東照宮には、明智家の家紋である「桔梗紋」が使用されている。これは「桔梗紋」ではなく、織田家の紋だという反論があるが、「明智平」という意味深な地名も日光には残されている。この「明智平」は、中禅寺湖と華厳の滝を見下し、日光東照宮を上から監視している。これは幕府の影の実力者は「明智」であったという暗喩(あんゆ)ではないのだろうか。
≪続く≫
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)