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あまりの高品質にコンクールが中止?!「セイコー」の腕時計伝説

セイコー(SEIKO)といえば、高級腕時計のブランドとして誰もが思い浮かべるものだろう。

日本初の腕時計、そして世界初のクオーツウオッチといった製品でも知られており、日本初の民間放送によるCM第一号を飾ったことでも有名である。

1881年、中古時計の修繕と販売を行なう服部腕時計店の創業を起源とし、1892年には「精工舎」を設立して時計の自社製造を開始した。工場設立からおよそ2ヶ月で掛け時計1ダースの製造に成功、1895年には初の懐中時計「タイムキーパー」、また1913年には国産初の腕時計「ローレル」を完成させるなどの実績を積み、精度や品質などにおいて高い技術力を誇った。

現在も、世界中のどこにいても現地時刻を正確かつ瞬時に示す世界初のGPSソーラーウオッチ「セイコーアストロン」を発表するなど、そのハイレベルな精度を追求してきたセイコーであるが、驚くべき逸話も存在している。

1964年のこと。当時、腕時計の本場ともいえるスイスにおいてニューシャンテル天文台で開かれる「クロノメーター検定」にセイコーが参加することとなった。この検定は、45日間かけて行なわれる究極の精度を競うコンクールであり、1860年から行なわれていた由緒ある検定であった。

その検定が、1968年に突如として中止が発表される異常事態が発生し、その原因はなんとセイコーの腕時計にあったというのである。

1960年、「スイスの高級品に挑戦する国産高級品」として産み出されたセイコーの腕時計「グランドセイコー」は、この検定のためにそれまでの技術が惜しみなく投じられ進化していくこととなった。初参加となった年、セイコーの出品した腕時計はいずれも不合格となっていたのだが、翌年1965年には出品した時計の平均成績を競うシリーズ賞で第6位、その後3位、2位と年々順位を上げていくこととなった。




次こそは世界一にと息巻くセイコーであったが、前述のように1968年は中止が発表されてしまい、後日に検定結果だけが送付されるという異例の事態が発生。

これは、スイスの主催者側がセイコーの躍進を恐れたことに起因していると言われており、事実あとになって、「日本に世界一の頂点の座を奪われる」ことへの恐れから中止となったことが判明したのである。

本場相手に脅威と見なされたセイコーであるが、話はこれだけに留まらない。

同検定において、100個の腕時計を出品し73個が合格となったセイコーの腕時計であるが、諸外国の時計が「検定用の特別品」として用意したものであるのに対し、セイコーはそれら腕時計を市販物として扱っていたのである。特注品揃いの中に市販品で臨み、しかも合格をしてしまうという事態は、海外の有名メーカーとしても顔を潰される思いだったであろう。

さらに、1968年に初挑戦したジュネーブ天文台コンクールでは、4位から10位までを独占し、腕時計総合1位という好成績を残し、ジュネーブの加点法、ニューシャンテルの減点法換算、いずれも過去最高の記録を打ち立てることとなった。その後、1970年代になってコンクールは事実上歴史の幕を閉じることになった。

過去にオリンピック競技などで、日本代表選手が多数勝利を勝ち取った結果、ルール変更されてしまったという例は聞かれるが、腕時計という分野において1960年代すでにセイコーが、似たような境遇に陥っていたというのは遣る瀬無い。その反面、セイコーの腕時計が世界水準を大きく見直す起爆剤となったことは確かだろう。

【参考記事・文献】
セイコー
https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%BC
スイス天文台クロノメーター・コンクールへの挑戦
https://museum.seiko.co.jp/seiko_history/milestone/milestone_04/
本場スイスを脅かした1960年代のグランドセイコーは名機の宝庫
https://x.gd/5WJJf

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(黒蠍けいすけ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

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