かまやつひろしといえば、1960年代に活躍したグループ・サウンズ「ザ・スパイダース」の元メンバーであり、ミュージシャンや俳優としても活動していた人物。
通称「ムッシュ」、ミュージシャンとしては「ムッシュかまやつ」と名乗り、多くの人々に親しまれていた。
「釜萢」(かまやつ)という名字は、主に青森県に偏在する名字だが、それは彼の祖父が青森県弘前の出身であることに関連している。その祖父はアメリカに移住していたため、かまやつの父は日系アメリカ人2世となっている。
父がティーブ・釜萢というミュージシャンであったこともあって、幼少期から音楽に親しんでおり、青山学院高等部時代に、カントリー&ウエスタン歌手としてデビューをする。その後、多くの芸術家や小説家、そしてミュージシャンが通っていたという伝説的なイタリアン・レストラン「キャンティ」に彼も通い、そこで田辺昭知(たなべしょうち)と出会う。
この時、実はすでにザ・スパイダースは結成されており、かまやつははじめゲストボーカルとして参加、その後正式にザ・スパイダースのギター&ボーカルを務めることになった。
その後彼は、「あの時君は若かった」「いつまでもどこまでも」「バン・バン・バン」など、グループが発表した楽曲の作曲、時には作詞も多く担当した。しかしながら、グループ最大のヒット曲となった『夕陽が泣いている』の作詞作曲は、浜口庫之助である。
さて、ムッシュかまやつは非常に遅刻常習犯として有名であった。ザ・スパイダースのメンバーの一人であった堺正章によると、かまやつは遅刻した際にいろんな言い訳を作っていたが、それで怒る人はいなかったという。どうやら、今度はどんな言い訳をしてくるかというのを周囲が楽しんでいたようである。なお、よく使用していたのは「明日だと思った」だったそうだ。
また、ある撮影の日のこと。いつものようにかまやつが遅刻。リーダーの田辺が境に促し電話を掛けると、電話口から「もう出ました」という返事があった。しかし、電話が切れた直後、思い返すとどう考えてもその声はかまやつだったのだという。
そんな遅刻魔のかまやつが、とうとう起こしてしまった盛大なやらかしがある。
1965年に発売されたザ・スパイダースの楽曲『フリフリ』。作詞作曲をかまやつが手掛けた本作は、グループにとって初のボーカル入りのオリジナル作品となった記念すべきものであった。
ところが、その「フリフリ」のジャケットを見てみると、その一番の功労者であるかまやつがどこにも写っていない。もうおわかりだろうが、このジャケットの撮影日に遅刻をしていたため、彼抜きで撮影されてしまったのである。
「メンバーの中で一番扱いにくい」と回想される反面、その自由さこそがザ・スパイダースの良さを生んだとも評されるかまやつは、2017年3月1日に78歳でこの世を去った。
都内で行なわれた「お別れ会」では、ザ・スパイダースのメンバーがおよそ10年ぶりに再結集をして音楽葬が開催され、ステージのラストに堺が「ムッシュがやってきました。やっぱり遅刻でした」「恥ずかしいので舞台には出てこないと。だから声だけです」と言い、彼のソロデビュー曲となる『どうにかなるさ』が歌唱された。
【参考記事・文献】
・https://plaza.rakuten.co.jp/pastaoyama/diary/200410150000/
・https://x.gd/TUi4h
・https://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20170506/enn1705061000003-n1.htm
・https://tvfan.kyodo.co.jp/news/topics/1106381
・https://showa-g.org/men/view/694
・https://shueisha.online/articles/-/198388
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