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『これが私の戦闘服だ!』派手な衣装と化粧姿を貫いた「淡谷のり子」エピソード

淡谷のり子は、青森県出身の女性歌手。「ブルースの女王」という異名を持ち、日本におけるシャンソン界の先駆者として知られている。

1937年に発表された彼女の代表曲である『別れのブルース』は、日本初のブルース歌謡と言われている。1999年にこの世を去ったが、近年ではNHK連続テレビ小説『ブギウギ』にて、劇中に彼女をモデルとした人物が登場、その言動が話題となったことで彼女の名がSNSのトレンドにもなった。

芸能界の御意見番ともされた彼女は、非常に辛口な評価を説く人物としても知られていた。

デビューしたての頃の松田聖子を「首を絞められたような声」と酷評、これまたデビュー間もない山口百恵を「童謡だと思ってみてる」とバッサリ。「(辛気臭いから)演歌は嫌い」と公言していたこともあって演歌界にも容赦はなく、八代亜紀には「あなたの声は歌手に向いていない」というコメントも残した。ただし、北島三郎のことは気に入っていたらしい。

まさしく毒舌家といっても良いこの彼女の言動は、すでに歌手として活動していた戦時中でも全く変わらなかった。

そんな時代のある時、東京の銀座を歩いているところを非難されたことがあった。

国防婦人会の女性たちいわく、「今は国民が一致団結して戦地の兵隊を応援するときなのに、そんな姿で前線の皆に顔向けできるのか?」。そう咎められた彼女は、濃い口紅を付けた化粧に高いヒール、そして派手なロングドレスを着た姿だった。

しかし、彼女は毅然とした態度で、「これは私の戦闘服。兵隊さんが鉄兜をかぶるように、歌手の化粧はぜいたくなんかじゃありません」と啖呵を切ったという。「いつ死ぬかわからない兵隊さんの前で汚いステージはできない」という彼女なりのプライドであったことが強くうかがえる。

ただ、その一方で始末書を何度も書かされていたそうだ。

歌手としての見栄えを何より重要視していた彼女は、お洒落のためには金を惜しまず、生涯を通じて8億円もの金額を費やしていたとも言われている。因みに、マニキュアや濃いメーキャップ、毛皮を着るといったスタイルを芸能界で初めて行なったのも彼女だと言われている。

戦時中にまつわる彼女のエピソードは多い。

実は、1939年には自身の「別れのブルース」が国民を鼓舞するような歌ではないという理由で、歌うことも禁じられたことがあった。しかし、そんな中で上海へ慰問に訪れた際、禁止されているはずの「別れのブルース」のリクエストを受け、実際に彼女が歌い出すと、本来であれば注意をして止めるはずの憲兵や将校がホールから退出、しかしよく見てみると、彼女の歌を聴いてその二人は泣いていたという。

またある時、慰問先で鉢巻をした20~30人もの若者がいた。聞けば、彼らは皆平均年齢16歳の特攻隊員であるのだという。その際、「命令により飛んだらもう二度と戻ってきません。歌の途中で出ていっても悪く思わないで下さい」と事前に連絡されたという。

実際に彼女が歌っている途中、静かに立ち上がり、笑顔で敬礼をして出ていく若者がいたという。彼女はのちに「あんなに悲しい思いをしたことはない」と回想し、その時は次の歌を歌うことができなくなったという。

彼女の辛口も反発も、すべては聴いている客が求めている「歌手」という像を、務め切ろうという彼女なりの強い意志と矜持があってのことだったとも言えるだろう。

【参考記事・文献】
https://www.news-postseven.com/archives/20231114_1918912.html?DETAIL
https://dorama-netabare.com/archives/150213
https://ameblo.jp/poohta8/entry-12838728427.html

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【文 ナオキ・コムロ】

画像 ウィキペディアより引用

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