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「アンドレ・ザ・ジャイアント」は”あんなもの”まで攻撃に利用していた!?

アンドレ・ザ・ジャイアントは、フランス出身の外国人プロレスラー。そのリング名が表すように、圧倒的な巨漢として知られており、身長はジャイアント馬場よりも14cm大きい223cmであり、体重も236kgと並大抵ではない重量と体格を誇っていた。

その巨体になぞらえ、「世界8番目の不思議」「人間山脈」「一人民族大移動」といった異名で呼ばれていた。

彼の巨体は、先端巨人症によってもたらされたものであると考えられており、15歳ごろから急激な成長を遂げたという。

巨体にまつわるエピソードは多く、フランスから米国に渡って来て以降、彼は北米に存在する多くの地域へ興業のため転戦していくこととなったが、移動の際は彼がおさまる車が用意できるか否かが急務となっており、飛行機においても座席一列が確保できるかどうかが問題になっていたという。

飲食も桁外れであり、一晩で106杯ものビールを飲み干した、飛行機内に用意されていた最大300本の缶ビールを飲み干してしまったという逸話があるほか、成人男性3~4人程度の食事量を有していたとも言われており、焼き肉屋の肉を全て平らげたほどだったと言われている。

長州力が、ある時寿司を食べに行った際、太巻きを注文した彼のもとには、従業員総出で作り上げられた消火器ほどの太さの太巻きが振る舞われたそうだ。なお、彼が寿司屋を訪れる際は毎回貸切状態にされていたという。

また、彼にとってはトイレ事情が非常に困難が付き物であった。飛行機内ではトイレのサイズが小さいために使用することができず、座席近くに掃除用のバケツを置いてそこで用を足したこともあったという。また、タイガー服部の証言によれば、同様の事情からホテルでは浴槽の縁につかまって用を足していたとのこと。

特に、放屁は非常に危険なものとして知られていたようであり、ハルク・ホーガンによると、ある時飛行機の中でアンドレが盛大に放出した結果、パイロットや乗組員を含めて外の空気を求めてパニックに陥ったこともあったという。

これは時としてリング上でも見られ、彼の必殺技の一つである「ヒッププッシュ」では、コーナーに追い詰められた相手に勢いを付けて尻を突き当てるという攻撃の際に、相手をコーナーに押し付けたまま放屁して相手を苦しめたこともあった。

なお、ジーン・オーカーランドによれば左足を上げるのがアンドレの”発射の合図”であったとのこと。

プロレスでの戦いでも彼は大きな活躍を見せていた。

そもそも、怪物レスラーなどと称された巨体なレスラーの多くは体格とパワー以外に録り得が無いことが多かった中で、彼はプロレスラーとして修業もこなし技も上手く使いこなせるだけの経験を持っていた。いわば、テクニックでも観客を惹きつけられる巨人としての基盤を固めていくことにも成功した人物といっても過言ではなかった。

1987年3月29日にWWF(ワールド・レスリング・エンターテインメント)が開催した第3回レッスルマニアは、2010年にNBAオールスターによって記録更新されるまで、当時の観客動員数最多となる9万3173人を記録したことでも知られている。

当時、WWF専属選手として参加をしていたアンドレは、この際に盟友のホー・ガンと世界ヘビー級王座をかけて激突するなどしたが、のちにこの観客動員数を関係者から聞いた彼は「ローリング・ストーンズのコンサートを超えたな」と一言口にしたという。

アンドレが参加した試合の中でも特に有名なのが、1981年9月23日でのこと。この日、今はなき田園コロシアムにて行なわれた新日本プロレスの「ブラディ・ファイト・シリーズ」では、当時の海外トップレスラー同志であったアンドレとスタン・ハンセンの頂上決戦が行なわれた。

大技が乱舞するような派手な展開ではなかった一方、いわゆる普通じゃない者同士が普通のプロレスをすることで、普通ではない空気を作り出したという異様な迫力に包まれた試合として知られている。

この試合では、ハンセンがアンドレに投げ技の一種であるボディスラムをかけるという世界でも数えるほどしかない快挙を起こし、実況の古舘伊知郎も興奮のあまり「持ち上げたぁ!!世界で5人目」と何度も叫んだほどだったという。

因みに、この5人のうち日本ではアントニオ猪木、長州力、ストロング小林がアンドレの持ち上げに成功しているという。それに加えてホーガンも成功していることからハンセンが5人目であったようだ。

なお、この試合は延長・無制限一本勝負へとなだれ込み、最後はアンドレがレフェリーであったミスター高橋に攻撃し反則負けとなった。

この時、ウェスタンラリアットをもろに喉へくらってしまった高橋は文字通り病院送りとなってしまい、また、興奮が治まらず暴走状態となっていたハンセンがセコンド陣にラリアットを見舞うような場面もあり、この際に当時無名であった前田日明が一人失神させられていたという。

そんな全盛を築いた彼は1993年、長年の飲酒および後年のトレーニング不足が祟ってか、パリのホテルの自室で死去した。一説には、父の死を機に改めてトレーニングと節制を行なったことで逆に心臓へ負担がかかったものと考えられている。

生前の遺言によって彼の遺体は火葬され、およそ7kgを超える彼の遺灰は彼が買い取っていたノースカロライナの広大な牧場へ散布された。

【参考記事・文献】
https://x.gd/GKVGN
https://x.gd/K5HSz
https://x.gd/h4QIn
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/28237
https://celeby-media.net/I0003230

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【文 黒蠍けいすけ】

画像 ウィキペディアより引用