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今なお最強説根強いプロレスラー「ジャンボ鶴田」伝説

ジャンボ鶴田は、全日本プロレスに所属していた日本のプロレスラーである。三冠ヘビー級王座の初代王者、日本人初のAWA世界ヘビー級王者という成績を残し、その圧倒的強さから「完全無欠のエース」「怪物」などと呼ばれ、史上最強説も囁かれた。

中学2年生で身長180cmを超えるほどの巨体であった鶴田は、高校時代にはバスケットボールに打ち込んでおり、大学入学後にもバスケを続けたもののわずか1年で退部し、この時レスリングへと転向した。その理由は、「レスリングの方がオリンピックに出やすい」という信じがたいものであり、「格闘技をなめるな」と入部を拒否されてしまったという。

その後、自衛隊でレスリングを始めることとなったのだが、わずか1年半で全日本選手権2連覇という結果を残し、1972年のミュヘンオリンピックではレスリング日本代表に選ばれ、本当にオリンピック出場を達成。これにより、鶴田はジャイアント馬場からスカウトされ、全日本プロレスに入団、プロレスラーとしての道を歩み始めることとなった。

馬場の後継者として期待をされた新人鶴田であるが、80年代、若手時代の彼はあと一歩のところで王座を取り逃すような爪の甘いファイトを続けたことで「善戦マン」と揶揄された。

そんなくすぶる日々の続いた彼が覚醒するきっかけとなったのは、アメリカのレスラー、ルー・テーズから「バックドロップ」を伝授されてからである。これによって一気にい躍り出た彼は、1983年インターナショナル・ヘビー級王座をブルーザー・ブロディから奪取したことを馬場から激賞され、「今日からお前がエースだ」と全日エースの座を正式に襲名することとなった。




その後、1987年に「全日に喝を入れる」と天龍同盟を結成した天龍源一郎や、1990年に三沢光晴や川田利明らによる超世代軍の抗争が行なわれたが、鶴田による超人的かつ規格外の強さが発揮されたことで鶴田人気は不動のものとなった。

鶴田の怪物を物語るエピソードはいくつかあるが、ファンの間で周知されるようになったきっかけは、1985年の11月4日、長州力とのシングルマッチだったと言われている。60分フルタイムによるドローとなった試合であったが、試合後に鶴田はさっさと飲みに行ってしまったというのだ。一方の長州力は、ロッカールームでぐったりと疲れ切ってしまっていたことからも、その怪物ぶりが見て取れるだろう。

また、三沢光晴の証言によると、彼が鶴田の付き人を務めていた間、鶴田がテニスやバスケで遊んでいたことはたびたびあったものの、その一方で筋トレをする姿を一度も見たことはなかったという。それでいて無尽蔵なスタミナを誇ったというのも驚きである。

さらに彼の必殺技「バックドロップ」の威力も凄まじいものであり、受け身の名手であった三沢でさえも「鶴田さんのバックドロップだけは違う」と言い非常に警戒していたという。

鶴田によれば「相手の受け身の技量によって落とす角度を変える」とのことであり、実は生涯で一度も本気のバックドロップを放ったことはないのではないかという噂まで囁かれている。

49歳という若さでこの世を去った鶴田であるが、今もなお最強説は根強く語り継がれている。

【参考記事・文献】
ジャンボ鶴田の死因!身長・最強説とバッグドロップ・嫁と息子も総まとめ
https://newsmatomedia.com/jumbo-tsuruta
ジャンボ鶴田
https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9C%E9%B6%B4%E7%94%B0
ジャンボ鶴田
https://dic.pixiv.net/a/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9C%E9%B6%B4%E7%94%B0

【文 ZENMAI】

画像『ジャンボ鶴田伝説 DVD-BOX