竹中半兵衛(重治)は、日本の戦国時代の武将である。黒田官兵衛と並んで戦国時代を代表する天才的参謀と呼ばれており、豊臣秀吉が天下統一を成し得るほどの出世を果たしたのは、この「両兵衛」が仕えていたからであるとさえ言われている。
非常に多くの逸話が残る人物ではあるものの、その実情はきわめて不明瞭であり、後世の創作も多岐に渡る人物であることが知られている。
彼は見た目にどのような人物であったかについては2種類あり、「太閤記」や「常山紀談」などによると、彼は病弱であったため婦人のように華奢だったというものだ。
美濃斎藤家に仕えていた頃は、斎藤龍興(たつおき)の寵愛する家臣にそのことをからかわれ、櫓の上から小便を掛けられたという逸話も残っている。その一方で、山鹿素行の『士談』には「武士らしい武士」として描かれてあり、また剣術は皆伝の腕前であったとさえ言われている。
では、その性格はいかなるものであったのかというと、出世に対して欲がなく、寡黙ながら頑固なプロフェッショナル気質であったようだ。唯一、欲と言えるものは自身の能力がどれほどのものかを試してみたいというものに限られていたとのこと。
また常にポーカーフェイスで本音が読めなかったという。先の龍興の寵臣からの仕打ちを受けた際も、特に反応を示すことはなかったようだが、その数日後には寵臣を斬り捨て、斎藤の居城である稲葉山城を乗っ取ったとも言われている。
ストイックな人物でもあったとされ、特に馬は「名品を持つと惜しんで勝利を逃してしまう」という思想から、「いざという時に捨てても惜しくない」よう名馬を持つことはなかったという。
のちに斎藤が居城を離れ浪人となった頃、評判を聞いていた織田信長が秀吉に半兵衛の勧誘に赴いた。当初彼は断っていたが、それに対して秀吉は「三顧の礼」をもって彼に接し、そのことで彼は秀吉の才能を見抜き、信長ではなく秀吉の与力として仕えることで承諾したという。のちに、本能寺の変ののち、秀吉に対してこれは好機であると伝えたとも言われている。
三顧の礼と言えば、劉備が目下の者である諸葛亮孔明を迎える際に三度訪ねたという故事に由来する言葉であるが、このエピソードが大きな影響を有したためか、半兵衛は孔明になぞらえたような逸話もいくつか残っており、「今孔明」という異名で呼ばれることがある。
因みに、「今孔明」という異名は半兵衛の息子竹中重門が記した『豊鑑』に「信長が半兵衛を今孔明と呼んだ」というように記されているが、父の業績を必要以上に盛ったものではないかとも考えられている。
寡黙な性格というと、気配も殺す物静かな人物のように思えるが、奇行めいた話も残っている。
彼は常に数珠を持っていたと言われているが、これは何かを祈ったり拝んだりするというわけではなく、爪繰りのために持ち歩いていたとのこと。また、腕や足を揺らしたり揉んだりしている様子があったそうだ。そのため、落ち着きがなかった人物ではないかとも思われるが、頭を働かせている人がよく手指を動かすという行動に近いものであるとも考えられる。
また、共に名参謀であった官兵衛にも関わる話がある。信長の重臣であったが謀反を起こした荒木村重に、官兵衛は交渉をしようと有岡城へ向かったが、捕らえられて幽閉されてしまった。信長は官兵衛も裏切ったと考え、彼の息子を殺すよう半兵衛に命じた。しかし、彼は官兵衛が裏切ったとは考えず、身代わりを立てて官兵衛の子・松寿丸を菩提山城へと逃がした。
その後、有岡城が陥落したことで官兵衛も解放されたが、その時には既に半兵衛は亡くなっていた。この話は、黒田家に伝わる公式記録『黒田家譜』に記されており、信長は松寿丸の殺害を命じたことに公開するも生きていたことで大きく安堵し、また経緯を知った官兵衛は半兵衛に対し深く感謝の念を示したという。
官兵衛が幽閉されていた時期、彼は播磨攻略の頃から体調が崩れだし、その後病状が悪化して陣中に戻り、そのまま36歳という若さで亡くなった。死期を悟っていた彼は秀吉から養生せよと言われるも、「陣中で死ぬことこそ武士の本望」と答え、その通りに亡くなったという。
【参考記事・文献】
・https://rekishigaiden.com/takenakahanbe/#i-7
・https://sengoku-his.com/787
・https://odanobu.com/article/54/
・https://sengoku-his.com/502
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【文 黒蠍けいすけ】
画像 ウィキペディアより引用