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売りさばいた壺は偽物だった?!伝説の商人「呂宋助左衛門」の生涯

呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)は、安土桃山時代から江戸時代初期ごろに活躍した日本の商人である。

和泉国の伝説的貿易商人と言われており、納屋助左衛門、菜屋助左衛門、魚屋(ちや)助左衛門などの別名もある。史実の実績に不明な部分が多い人物であるが、1978年にNHK大河ドラマ「黄金の日日」にて主人公として描かれたことで広く知られるようになった。

彼は、堺の貿易商人である納屋才助の子として生まれたと言われている。その前半生はよくわかっていないが、父親の代から豪商である今井宗久に奉公人として仕えたのちに独立し、その後ルソン(現在のフィリピン)へ渡って貿易商を営み巨万の富を得たという。彼の「呂宋」(るそん)はここに由来する。

ルソンから日本へ帰った彼は、豊臣秀吉の保護を得たことで、国内においても日本屈指の豪商として活躍していた。また、ルソンから戻る際に壺を日本へ持ち込み、それらを大名たちに高値で売りさばき豊臣秀吉へも献上している。この壺は「ルソンの壺」と呼ばれ知られるようになった。

この他、秀吉に対してはジャコウネコ2匹、真壺、唐傘、香料などが献上されたことが記録に残されているという。ルソンの壺に至っては、50個が献上されたようだ。

だが、彼はその後日本から脱出し再びルソンへ渡ることとなった。その理由には諸説あるが、どうやら豊臣秀吉を怒らせたことが原因であったようである。




彼は日本でも何不自由ない生活を送っていたが、そのあまりに華美な生活から「身分をわきまえずに贅を尽くしすぎている」「秀吉の権威をないがしろにしている」ということを石田三成から報告されたことで、邸宅没収という処分を受けることになったと言われている。

これについては、その派手な生活ぶりから石田三成が悪意を込めて告げ口していたとも言われている。

また、秀吉を激怒させた理由には、ルソンの壺が実は宝物などでは全くなく、現地では雑器として扱われており便器代わりにまで使用される代物であることがバレたからという説もある。

いずれにせよ、石田三成より讒言されたことで処分を受けることとなった助左衛門だが、このことを事前に察知した彼は財産を菩提寺の大安寺に寄進して日本を脱出することとなった。

ルソンへ渡ったあと彼は、さらにカンボジアへと亡命して国王の信認を得ることとなった。驚くべきことに、現地で彼は日本から渡航する商人を管理する総元締めの地位にまで登り詰め、再び海外の地で成功をおさめることとなった。

その自由人ぶりと成功から、商人の憧れともなっていたという助左衛門であるが、実在の人物であったのかについては議論されることもあった。

彼が財産を寄進したという大安寺によれば、1615年に大安寺が全焼した際に売却されていた助左衛門の居宅を買い取り、この時に買収資金を寄せた堺町人たちの名を記した銘板が保存されているという。1950年代には、歴史学者の泉澄一の資料調査によってその実在はほぼ確実であるとも言われている。

因みに、彼が高値で売りさばいたという「ルソンの壺」の目利きをしたのは千利休だったそうだ。ひょっとすると、助左衛門自身は偽物の宝物として売る意図はなく、千利休によって思わぬ価値を叩き出されてしまい、結果として彼が騙したということで罪をかぶってしまったのかもしれない。

いずれにせよ、商人として2度も成功をおさめることができたのは、間違いなく彼の才力によるものであったに違いない。

【参考記事・文献】
第54話 呂宋助左衛門
https://osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/054.html
呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)
https://sanada-nobusige.com/2016/05/19/rusonsukezaemon/#index_id0
呂宋の海へ~アジアネットワークの中の堺~(1)
https://toursakai.jp/2018/post_201/

【アトラスラジオ関連動画】

【文 ナオキ・コムロ】

画像 ウィキペディアより引用