昭和を代表する歌手の一人であるフランク永井は、「魅惑の低音」と称されたその声を武器にムード歌謡のジャンルを切り開いた歌謡歌手として知られていた。『有楽町で逢いましょう』は代表作と言えるほどのヒットとなり、日本レコード大賞を1度、歌謡賞を2度、特別賞を3度受賞し、紅白歌合戦にも26回連続出場を果たすなど、国民的歌手となった。
人気歌手として活躍していた永井であるが、その晩年は壮絶とも言えるほど悲痛なものであった。
1983年の紅白歌合戦に落選したその2年後の1985年、彼は突然自宅で首つり自殺を図った。発見が早かったため、幸いにも一命を取り留めることにはなったが、会話が不自由になり、また記憶力も大きく低下してしまうという脳の障害が残ってしまった。リハビリによって芸能界復帰も予見されたものの、症状はますます悪化していき介護状態となった。
さらに不幸は続く。
彼の最愛の妻は、介護疲れに加え財産を巡る親族との争いに巻き込まれたことで鬱病を発症し、1991年にはその妻も自殺未遂、翌年には離婚が成立した。子どももいなかったことで、介護する人間がいなくなった永井はその後高齢者施設で生活を送ることとなり、その後肺炎によって亡くなった。
自殺未遂後、転落とも言えるほどの晩年を送った永井であるが、そもそも彼が自殺を図った原因は、愛人にまつわるものであったと言われている。
妻とすでに結婚をしていた当時、彼はある女性と愛人関係にあったと言われている。その女性は、永井と別れた後、別の男性と結婚するその間に子供を産んでおり、その養育費を永井に請求していたという。なお、彼女は永井の子供だと強く主張し、永井はこれに1000万円を超える金額を支払っただが、認知を迫る女性からさらに4800万円もの金額を要求された。
だが、その後とんでもない事実が発覚する。
なんと、女性が「永井の子だ」と主張していたその子供が、ほぼ永井の実子ではないことが大阪医大の鑑定によって証明された。結果、養育費をたかられたに等しかった彼はこの心労によって自殺を図ることとなったという。
とはいえ、その際彼は遺書を残していなかったこと、そして記憶に障害が生じてしまっていたことで、詳しい真相はわからないままとなっているのが現状である。
晩年の実に23年もの間、彼の歌声を聴くことが叶わなくなってしまったことは、非常に寂しいものである。
【参考記事・文献】
歌伝説・フランク永井の世界
https://plaza.rakuten.co.jp/torazou/diary/200903010000/
愛人女性に晩節を汚された昭和の大歌手—「フランク永井」の”しくじり”人生
https://ameblo.jp/earlybird908-blog/entry-12379526433.html
フランク永井の壮絶な晩年と死因。松尾和子を見出した?家が大使館に&子供について
https://asuneta.com/archives/63461
【アトラスラジオ関連動画】
【文 黒蠍けいすけ】