力持ち幽霊は、今の石川県である能州に伝わる妖怪のたぐいである。江戸時代の加賀藩士・国学者であった浅香久敬(ひさたか)が著した奇談集『四不語録』という随筆の中に記述があるが、「力持ち幽霊」という名称そのものは水木しげるによって名付けられたものである。
飯山(いのやま)の谷入(やいり)にある神子原(みこがはら)という村に、とある百姓がいた。その百姓の女房は両脇に鱗があり、乳房も一尺余りと長いために子を負ぶって乳を肩にかけて飲ませることもできた。また、大変に力持ちであり、男4~5人分の作業をこなすこともできたほどであった。その女房が、ある時病で命を落とし、17日目に幽霊となって現れ夫を取り殺してしまった。
ある時、村の作蔵という男が「墓に穴があると幽霊が必ず現れる」という話を耳にし、坊主と共にその女の墓を確認しに行くと確かに穴があいていた。作蔵は木々を切って穴を埋めようとするも深さもありなかなか埋めることができず、ついに人を集めて土石により穴を埋めることができた。しかし、その日以来、作蔵のところへ夜な夜な女が現れるようになり、くすぐるなど厄介ごとをたびたび起こすようになった。
作蔵は近隣の村に名刀があると聞き、それを魔除けとして置いたところ女の幽霊は現れなくなったが、およそ1ヶ月して刀を返したところ再び幽霊が現れ始めた。そしてある時、作蔵が柴を背負って山を下っていたところ、突然10メートル以上向こうの谷底へ投げ込まれた。それはまさしくあの女の幽霊の仕業であったが、投げ込まれた作蔵はからくも命を落とすまでには至らなかった。気絶していた作蔵の様子を見た女の幽霊は、彼が死んだと判断したのか去っていき、以後姿を現すことはなかったという。
この話は、延宝年間に作蔵という男本人が語ったものとして随筆に記されており、本来は単に「女の幽霊」として記載されている。両脇に鱗があるという描写は、この女が人並み外れた存在であることを示したものであると考えられるだろう。また、出典によっては女が幽霊になって現れた日が「十七日」(『日本妖怪大全』など)もしくは「七日」と違っているが、おそらく初七日を表す「一七日」の解釈違いであったと考えられる。
初七日は通常、三途の川に辿り着いて渡る日だとされているが、どうもそれを放棄しているようにも見える。ひょっとすると、生前の女は力持ちであったというよりは無理やりにいくつもの労働を押し付けられていたような立場だったのではないだろうか。そうでなければ、幽霊となり夫を取り殺すといった展開にはならないだろう。両脇に鱗があったという描写は、実際についていたというよりかは人間離れしていることを強く印象付けるためのものであった可能性も考えられるだろう。
山口敏太郎が説くように、女性を始め子供や高齢者など社会的に弱い立場にある人が、強者に対する復讐の意味合いで幽霊・妖怪化されるという事情はよく見られるが、この説話はその中でも特に「投げ飛ばす」というような物理的な攻撃として現れている点が幽霊と称されるたぐいの中でも珍しいと言えるだろう。
【参考記事・文献】
水木しげる『日本妖怪大全』
怪力女幽霊
https://sanmoto.net/_koten/0727kairikiyurei.htm
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【文 黒蠍けいすけ】
Jim CooperによるPixabayからの画像