1902年(明治35年)1月、八甲田山史上最悪の悲劇が起こった。折しも、日本は大国ロシアとの戦争に突入しつつあり、世相は緊迫していた。帝国陸軍・歩兵第5連隊第2大隊の210名は、シベリアでの戦闘を想定し、雪中行軍中の訓練を実施しようとしていた。
ロシアとの戦争は、もはや回避できない、目前の課題であったのだ。だが、この部隊は、八甲田山での遭難という悲劇に見舞われる。行軍中、まったく前方が見えない状態が続いた。
もはや、方角もわからない、完全に遭難してしまった。兵士がヒステリックに叫ぶ。
「隊長、まったく道がわかりません」
隊長が悲しげに視線を前方に飛ばす。
「うむ、もはやこれまでか」
目がうつろな隊長。二人の背後には、疲れ果てた200名の兵隊たちがあちこちに座り込んでいる。中には疲労から冬山の川に落下し命を落とす者や、行軍中に倒れこみ、そのまま眠ってしまう者もいる。部隊に絶望的なムードが流れる。
「このままでは全滅だ、天は我々を見放した」
続々と兵士が倒れていく。または、立ったまま凍りつき、そのまま目を閉じ凍死していく兵士。凍死しながら、兵士たちは恍惚の表情を浮かべる。まるで、暖かい部屋の中でも想像しているのだろうか。その惨状は、あまりにも酷い。救助隊が発見した時には、連隊の210名中193名が死亡するという大惨事であった。
映画「八甲田山」の原作小説を書いた作家・新田次郎が書き留めた逸話に、こんな話がある。遭難事件直後、青森の基地で、怪異が続いた。
毎夜、あの第5連隊が帰ってくるのである。深夜になると…。
「ザッザッザッザッ」
規則正しい足音が聞こえる。夜陰に浮かび上がる兵士たちのシルエット。亡霊たちは、隊列を組み、悠然と基地に向かって歩いてくる。彼らは、八甲田山から軍靴を響かせて帰隊するのだ。あの世からの帰還である。毎夜、毎夜続く軍靴の響き。見張りの兵士が飛び込んでくる。
「連隊長、また奴らが帰ってきました」
真っ青になっている兵士の顔。恐怖で手の震えが止まらない。
「なに、毎晩毎晩、かえってきているのか」
連隊長の声もうわずっている。あの事故以来、毎晩のように怪異現象が起こる。最初は気のせいだと否定していた彼も、認めざるえない。
「今だに基地への帰還をめざして彷徨っているのか。なんとも哀れなことだ」
机の上においた拳を震わしながら、連隊長は決意した。
「このまではいけない」
ある夜、意を決した連隊長は、門前で亡霊たちを待ち構えていた。
「あいつらは、もう死んだのだ。ここに来てはいけない」
仁王立ちする連隊長に向かって、亡者の行進が近づいてくる。半透明で、無表情な死者たちの行進。
すると、連隊長は、死んでいるはずの部下たちに号令をかけた。
「全員、回れ〜 右、前へ進め! 」
一瞬、ぴたりと動きを止めた亡霊たち。しばし、停止すると回れ右をした。そして、従順な部下たちは軍靴を響かせ、山へ帰っていったという。これ以降、基地での怪異はなくなった。