河鍋暁斎は、罰末から明治にかけて活躍した浮世絵師。7歳で歌川国芳に入門し、絵師として独立後は狂画、風刺画、錦絵などで人気を博し、妖怪画や幽霊画なども多く残した。
名前にある「暁」は通常「ギョウ」と音読みするが、もともと名乗っていた河鍋狂斎の”狂”(キョウ)を”暁”に改めた際、読みが踏襲されたためにそのまま「キョウサイ」と読む。
人々から絶大な人気を得た風刺画を数々描いた暁斎の、ある種反骨精神を物語る出来事として、1870年の筆禍事件がよく語られる。これは、上野で開かれたとある書画会にて、暁斎が政府の役人を批判するような風刺画を描いたことで捕らえられ、鞭打ち50回の刑に処されたというもの。
この時に描いた風刺画の内容が、具体的にどのようなものであったのかはよくわかっていない。翌年には釈放された彼であったが、図らずもこの事件によって彼の名は一層世に広まることとなり、またどんな心境の下であったかは不明ながら、この時に前述の改名を行なっている。
「画鬼」とも称された彼の絵に対する熱量は半端なものではなく、近所で火事があればその様子をスケッチしたり、川で捕まえた鯉の鱗を一枚ずつ観察したりなど、並々ならぬ行動力を発揮していた。
そんな彼にまつわるとんでもない逸話として「生首の写生」というものがある。1839年、当時国芳の門下にいた暁斎が、梅雨の時期に溢れた神田川で生首を拾い、なんとそれを持ち帰ってスケッチ(写生)したというのである。
もともと、国芳も人の喧嘩を探してそれを写生せよという師匠の教えに従っていたこともあり、暁斎の絵への熱意もそれを受け継いだものであったのかもしれない。だが、そんな国芳の行ないに暁斎の父親が不信を抱き、これによってわずか数年で国芳のもとを去らなければならなくなったという。
因みに、国芳が無類の猫好きだったように、暁斎は無類のカエル好きだった。幼い頃からカエル好きであった彼は、ある時に大人からカエルを渡され大いに喜び、それを菓子袋に入れて屋敷に戻ると袋の中の菓子をすべて投げ捨て、袋にカエルの絵を描いたという。
この時、暁斎の年齢は3歳、これが彼の最初のスケッチ体験だったと言われている。なお、彼の墓石はカエルの形をした自然石が使用されているという。
【参考記事・文献】
・https://irohameguri.jp/learn/kyosai/
・https://www.mirainoshitenclassic.com/2018/08/a.html
・https://ada-bana.hatenablog.com/entry/2015/07/15/080119
・https://otakinen-museum.note.jp/n/n4ee4e3d50524
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【文 イトフゆ】
画像 ウィキペディアより引用