※下記は2019年2月の記事の再掲載です。
今から140年前の明治12年(1879年)1月31日、「希代の毒婦」「悪女」と称される高橋お伝が処刑された。
高橋お伝、日本最後の斬首刑となったことで知られるが、死後様々な伝説を残している人物だ。
高橋お伝(本名:でん)は、明治9年(1876年)ハンセン病にかかった夫を毒殺。その後,浅草の宿屋で古着商の後藤吉蔵をかみそりで殺害して金を盗むという強盗1件殺人2件を起こした罪で捕まった(もっともハンセン病の男性殺害はお伝の仕業ではないという説もある)。
そして、明治12年に東京裁判所で死刑判決がなされ江戸時代の死刑執行人・八代目山田浅右衛門の弟である山田吉亮により斬首刑に処されることになった。
この際、お伝は「申し上げあることがございます!」と叫びだし自分の殺した男の名前を叫びだした。いつまで経っても叫び終わらないので獄卒(獄で囚人を取り扱う下級の役人)がお伝を押さえつけ、山田吉亮が一刀を振り下ろしたが、暴れるために顎に刀が当たり、慌てて刀を再度振り下ろした。
すると今度は頭蓋骨に当たってしまい頭から血をダラダラと流してしまった。この時のお伝の叫び声はさすがの山田吉亮も聞くに耐えなかったという。
山田吉亮は仕方なく首は落とさずにお伝の咽喉を掻き切ることで処刑を終えた。このように日本最後の斬首刑はかなりグダグダな状態だったという。
さらにお伝に関してはもうひとつ伝説がある。
警視庁により解剖されたお伝の遺体の一部はホルマリン漬け(アルコール漬けという説もある)にされ東京大学の医学部に保管されたが、後に泥棒に盗まれ行方不明になってしまったという。
そのうちお伝の陰部をホルマリン漬けしたものが昭和31年、港区内のゴミ捨て場に捨てられており、何者かが回収されたそうで今はどこにあるのかわからないという。
(文:穂積昭雪 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
画像 ウィキペディアより引用