艶話や不謹慎ネタを盛り込んだ芸風として知られる落語家と言えば、快楽亭ブラック。もともと、立川談志のもとに弟子入りをしており、1992年9月に快楽亭ブラックを襲名。2005年に、借金がもとで落語立川流を自主退会したものの、以後も落語家として活躍している。
彼は、談志門下に入って立川ワシントンを名乗って以降ブラックの襲名に至るまでに、なんと16回も改名をしている。
これは、「(古今亭)志ん生の改名記録を超えろ!」という家元談志じきじきの命令に由来しており、「立川レーガン」「立川フルハムロード」「立川レフチェンコ」など、当時世間で話題となっていた時事にまつわるものを織り込んだ名前も起用されていた。
因みに、志ん生の改名総数は18回であるため惜しくも到達はしていない模様。
ところで、この志ん生の改名数を超えろという命令は、入門してはじめから指示されたことではなかった。実は、彼は立川流を一度破門されており、再度入門した後で下されたのがこの命令だったという。
なお、この時破門になった理由は、談志の通帳から無断で金を引き出したためであるという。92年の除名(談志の言)は、本人もあくまで「自主退会」であり「破門」ではないと主張している。
さて、この快楽亭ブラックは実のところ名跡として二代目であり、初代が存在している。その人物は、ヘンリー・ジェイムズ・ブラックというオーストラリア生まれのイギリス人で、のちに日本へ帰化した芸人だ。
日本初の外国人タレントと言われており、1876年に浅草の吉川亭にて初舞台、この時は西洋奇術を披露して人気を獲得したという。演説や落語、催眠術などを披露する中で講談師の松林伯円にその手腕を買われ、その後三遊派に加入し真打として「快楽亭ブラック」を名乗るようになった。芸人としては、当時三遊亭円朝と人気を二分するほどだったと言われている。
そのほか、自由民権運動に関わる講演会を行なったり、日本で初めて事件解決のカギに”指紋”を使った探偵小説『岩出銀行血汐の手形』を著したりと、多岐にわたる活躍をしていた。なお、その初代と現在存命の二代目には何かしら師弟関係はあるのかというと、特にはない。
【参考記事・文献】
・https://www.theatrum-mundi.net/geinin/kairakutei.shtml
・https://shike.hatenablog.com/entry/20090302/p2
・https://takenaka-hanpen.hatenablog.com/entry/2019/11/22/011600
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【文 黒蠍けいすけ】
画像『落語狂人 快楽亭ブラック』