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最強の女子バレー「東洋の魔女」 最も恐ろしかったのは監督ではなかった?

東洋の魔女とは、1960年代に全盛を誇った女子バレーボール日本代表チームの俗称である。圧倒的な強さを誇り、日本に空前のバレーボールブームを巻き起こしたことでも知られる。

このブームによって『アタックNo.1』や『サインはV』といった名作女子バレーボール漫画も誕生することとなった。取りにくい位置に飛んだボールに飛びつきながら回転動作を主なってレシーブする「回転レシーブ」は、東洋の魔女の代名詞としても知られる。

はじまりは、大日本紡績(現ニチユカ)貝塚工場の女子バレーボールチーム。監督・大松博文が率いる日紡貝塚チームが、1960年の欧州遠征で22連勝という驚異的な記録を叩き出し、世界各国のマスコミがこのことを報道した。

特に、当時世界でも断トツの強さを誇っていたソビエトにおいて、通信社が「東洋の台風」「東洋の魔法使い」という表現を使用したことで強烈なインパクトを与えることとなった。

1962年には、その強豪ソビエトを下して優勝し、さらに64年の東京オリンピックではソ連との全勝同士の対決を制したことで日本の団体球技初の金メダルを獲得した。こうして、東洋の魔女は世界的にも恐れられる女子バレーボールチームとなり、同時に日本国内で空前のバレーボールブームを起こすほどに子供たちの憧れの存在となった。

これほどの強さを誇った東洋の魔女であるが、その強さは圧倒的な練習量に裏打ちされたものであった。そもそも、選手たちはみな工場で働いている身であり、仕事が終わったあとに練習を行なうというスケジュールをこなしていた。その練習も10時間ということから当然日付もまたぎ、時には朝の5時まで続くこともあったという。

「相手が10練習しているならこっちは15練習しろ」。これこそが、鬼の大松と恐れられた監督のスパルタトレーニングであった。そうした特訓に、選手たちも言い返したり歯向かったりといった反抗を幾度もしており、外で「大松の馬鹿野郎!」と叫ぶ者もいたほどだという。

「打倒ソ連」を宣言した頃には、特訓もさらに過酷となり、体中生傷が絶えず、動きが止まれば大松からボールが、失敗をすれば罵声が飛んだ。レシーブ練習も1人300本に及んだ。こうしたスパルタゆえに、批判も多かった大松監督であるが、選手たちが最も恐れたのは実は監督よりも、むしろ主将だった河西昌枝だったという。

選手たちは終業が15時、大松が仕事を終えてやってくるのは17時であった。この大松がコートにやってくるまでの2時間は、主将の河西がコーチを兼任していたのだが、選手たちはこの河西による2時間の方が精神的にもきつかったとのこと。

河西は1ミリもズレないレシーブで返すことを要求し、少しでも逸れると無言で睨み返していたというが、どんなミスに対しても怒鳴ることをせず無言のままである河西が、言い返しなどもできない威圧感を覚え、相当に堪えたという。

選手たちはいつも替えのシャツを3枚ほど用意していたようだが、この河西の2時間の練習で1枚は必ず替えることになったという。選手たちは、大松がやってくると逆にホッとしたという。

とはいえ、この河西の練習があったからこそ、東洋の魔女のレシーブ力は桁違いの水準へと変貌していったことは間違いない。

【参考記事・文献】
https://nipponbiyori.com/oriental-witches/
https://www.joc.or.jp/past_games/tokyo1964/tokyo40/20041021_tokyo.html
https://spaia.jp/column/volleyball/1128
・https://bunshun.jp/articles/-/51209

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【文 黒蠍けいすけ】

画像 ウィキペディアより引用