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「黒沢年雄」伝説 東宝合格理由はド派手なパフォーマンスのおかげ?

黒沢年雄は、歌手・俳優として活躍する人物である。1964年に東宝主催のオーディション「オール東宝ニュータレント」に合格したことで入社、映画やドラマで人気を博し、「時には娼婦のように」などのヒット曲を世に送り出す。

40代からはバラエティ番組にも進出し、ニット帽をトレードマークにそれまでのニヒルなキャラクターから弾けたキャラクターに転換したことで人気となった。2000年には、「黒沢年男」の「男」を「雄」にする芸名の改名を行なっている。

東宝のオーディションを受ける前、実はすでに大映や日活にも受かっていたという黒沢。それでも、一番大きかった東宝を受ける為にそれらを蹴ってチャンスをうかがっていたという。

第一審査でのこと。面接する側に宝塚歌劇団出身の女優・新珠三千代がおり、大ファンだった黒沢は照れて恥ずかしさのあまり地面に寝転がってしまった。進行係によって「まじめにやれ!」と注意を受けたが、「こんなキレイな人に質問されて素直に答えられるわけない!」と黒沢は反発。しかし、なんだかんだで審査を通過してしまった。

そして迎えた最終審査。黒沢は、わざと遅れての登場を計画し、頃合いを見計らって会場へ入場。他の人の審査を押しのけて真ん中で立ち、「僕をとらないと映画界の損失になります!」などと言い放った。この結果、オーディションにて合格した男性は彼ただ一人だったという。

 

この合格に関してはいくつかエピソードがあり、プロデューサーであった藤本真澄によれば「三船敏郎の面接時の態度に似ていた」ことが合格理由であったとされている。また、審査員の中には彼を映画監督である黒澤明の息子だと勘違いしていた人もいたらしい。

そして、実際に黒澤明に関連したエピソードもある。

ある時、藤本が「面白いヤツだから使ってよ」と黒沢明に黒沢年男を推したことがあった。しかし、その時の監督の返事は、「名前を変えたら使ってやる」というものだったという。

実のところ彼は東宝へ入った際、東宝のスターは名前に数字が入っていること、そして八方破れな黒沢にピッタリだという理由から、「八方一郎」(やかたいちろう)という名前が提示されていた。

しかし、黒沢はこの名前を拒否し、続く「黒沢敏郎」についても三船敏郎に名前負けするという理由から固辞、結局旧芸名かつ本名でもあった「黒沢年男」で落ち着くこととなった。

もし、彼がこの時芸名を受け入れていたら、黒澤明監督の映画への主演に抜擢されていた可能性もあったのかもしれない。

 

【参考記事・文献】
https://asuneta.com/archives/140389#toc1
https://www.news-postseven.com/archives/20201113_1610896.html/2
https://dic.pixiv.net/a/%E9%BB%92%E6%B2%A2%E5%B9%B4%E9%9B%84

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【文 ZENMAI】

画像『スター☆デラックス 黒沢年男