フィンガースナップ、俗に「指パッチン」と呼ばれる小技をご存じの方も多いだろう。ギネスによれば、ドイツの少年が2019年に打ち立てた、1分間に334回もの記録が世界最速の指パッチンとなっているという。
だが、それ以上に今でも日本人であれば「指パッチン」と聞くと真っ先に思い浮かべるのは、ポール牧ではないだろうか。
ポール牧は、かつてコメディアンやタレントなどで活躍した人物である。曹洞宗寺院の生まれである彼は、10歳で得度(とくど)して高校卒業後に還俗(げんぞく)、その後関武志と共に「コント・ラッキー7」を結成するも、のちに関の死去によって解散。
コンビ解散後は活躍が低迷していたが、80年代後半にスタートした『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』への出演によって再ブレイクを果たし、広く名が知られるタレントとなった。
しかし、その矢先に僧侶であった兄の死去に伴って芸能活動から一線を退き、再び得度して、以後僧侶として講演会などで活動することとなった。
そんな彼は、2005年に新宿区の自宅マンションから飛び降り全身打撲によって死去。
牧の突然の死は、女性スキャンダルや多額の借金が原因であったとも言われている。漫談家・牧野周一の同門であり、それを表す「牧」の字を同様に付けていた牧伸二も2013年に多摩川に身を投げ自殺、奇しくも両者とも4月に自らの命を絶ったことになる。
なお、牧についてはいくつかのエピソードが知られている。
彼は、そもそもその出生が仰天するものであり、両親がそれぞれ40歳も年が離れており、彼が誕生した際父親の年齢は66歳という高齢。高校卒業後には、一時秋田県の大館にて禅寺で修行をするものの、修行を終えてすぐに上京。
その理由は「お寺はつまらない」というものだったそうだ。
はじめは放送作家のはかま満緒のもとに弟子入りをしたが、その同期にいたのが萩本欽一であった。彼はブレイク時、「ホラ吹きポール」との異名で呼ばれていたが、この時からすでにあだ名で呼ばれており、仲の良かった萩本はいつも彼のホラ話に付き合っていたそうである。
さて、ポール牧がコント・ラッキー7で下積みをしていた時期、相撲部屋に無断で居候していたことがあるという。70年代、元横綱・栃錦が春日部親方であったこのころ、親方に内緒でポール牧が若い衆の大部屋で寝泊まりをしていたという。
春日部屋親方によると、夜中に大部屋がやけに賑やかだと思って覗いてみると、見知らぬ人物が若い衆を笑わせていたという。だが、日頃若い衆も大変だろうし、楽しませているのならいいかと判断し、結局知らないふりをして黙認していたという。
だが、流石にいつまでもそのままではいられないと考えたポール牧は、激怒を覚悟で親方に謝罪に出向いた。ところが親方は、「知ってたよ。あんたも頑張りなよ」と一言答えてたという。このエピソードは、知る人ぞ知る彼のエピソードとして語られているそうだ。
【参考記事・文献】
・https://rocketnews24.com/2019/03/11/1184076/
・https://newsmatomedia.com/porumaki
・https://trendynewss.xyz/archives/6376#i-3
・https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/337123
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【文 ZENMAI】
画像『指パッチン人生論』