ヨネスケは、日本の落語家およびタレントである。1967年、高校を卒業してすぐに四代目桂米丸のもとに弟子入りして桂米助となり、1989年から落語以外の活動でカタカナ表記の「ヨネスケ」と芸名を変更。テレビタレントとして人気者になり、アポなしロケの元祖とも言える「突撃!隣の晩ごはん」のレポーターとして知られることとなった。
1948年に生まれた彼は、兄弟とで父親が違うという複雑な環境にあり、彼自身の母親は父親の妾という立場であったという。父親は生活費を家に入れず、母親の女手一つで育てられた。このことから、不倫問題のコメンテーターを任された際には、「父親が愛人を持ったから自分が生まれた」という旨を論じて不倫を擁護する傾向があるという。
ヨネスケが桂米丸のもとに弟子入りする際、長髪であることを指摘されて丸刈りにした。
このころ、師匠の娘である4歳の次女を近所の公園に連れて一緒に遊んでいたのだが、坊主頭で人相が悪いという理由から近所の人が米丸宅へ駆けつけ、「娘さんが誘拐されそうになっている」と報告してきたということもあったという。このエピソードは、彼が近年に「徹子の部屋」へ出演した時に語られ、「危うく誘拐犯にされるところだった」と回想している。
なお、芸名のヨネスケというカタカナ表記は、上方落語の重鎮である桂米朝門下と間違えられることを避けるため、また「とにかく売れろ」という師匠の後押しから親しみを持たれやすくするために変更したそうだ。
さて、ヨネスケの代表的な活動といえば、なんといってもやはり冒頭でもあげた「隣の晩ごはん」だろう。
コーナー名が入った大きなしゃもじを手にして一般家庭へ予告なく訪問し、その日食べる夕食、もしくは食べた夕食を紹介するという名物コーナーであり、元々は朝のワイドショー『ルックルックこんにちは』のワンコーナーとして1985年からスタートしたが、番組終了後も別の番組で放送が続けられるほどの人気を誇った。
「ルックルック」が終了するまでにおよそ2400軒もの過程を取材しており、その後の放送も含めると計2800軒を超える取材になっているとされている。
“本当のアポなし”というスタイルであった本コーナーであるが、実は第1回目はディレクターが仕込んでいた打合せ済みのものであった。
家主の老夫婦が三つ指をついて迎え、鰻、テンプラ、寿司が食卓に並んでいるという明らかにリアルとは思えなかったその様を見て、突撃にしようとヨネスケが提案、結局この放送はボツとなり、2軒目から現在のスタイルになったという。
ヨネスケ本人によると、これまで一度もこのロケに慣れたことはなく、地震や火事が起きたらやらなくて済むだろうか、と考えるほど毎回緊張していたという。
一方で、入れてくれるか否か、本当に嫌がっているかのか一押しすれば入れてくれるか、といった勘は研ぎ澄まされるようになっていったとのこと。
また、アポなし取材という性質柄、やはりハプニングのような事態も起こっている。ある時、どう見てもカタギではない家に訪れたことがあり、着物を着た奥さんが台所で鍋の中身などを話していたところ、その家の旦那さんが怒鳴り込んできてしまったため、結局お蔵入りになったという。
また、地域によっても差があり、地方や大坂は迎え入れるのに大らかであったが、広島や名古屋、東京の世田谷などは非常に難しく、田園調布で行なった際は36軒連続で取材を拒否されてしまい、結局夕食を放送できずに終わってしまったこともあった。
実際、明らかに怒ったり嫌ったりして断ってきた家も多かったようだ。ヨネスケによれば、基本そうした反応に対しては土下座で返し、そうすることでそれ以上文句を言われることもなく、これまで一度も訴えられたことはなかったそうだ。
彼の努力と誠意もあって不動の人気を獲得した「隣の晩ごはん」は、まさしく彼を象徴するコーナー・番組であったことは間違いないだろう。因みに、明らかにこの番組が由来であろうが、ナンパ用語で「女性の家の中へ入る」ことを「ヨネスケ」と言うらしい。
【参考記事・文献】
・https://mo-mo-town.com/?p=209214#toc9
・https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2024/09/30/kiji/20240930s00041000236000c.html
・https://news.line.me/detail/oa-shujoprime/c36359418ba3
・https://x.gd/6umOm
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【文 ZENMAI】
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