広瀬武夫は、大分県出身の海軍軍人である。英雄的な逸話から軍神として神格化され、出身の地である現在の竹田市には彼を主祭神とした広瀬神社が建立されており、また彼を称える多くの唱歌が作られていたほどに知られていた。
岡藩藩士に生まれた彼は、兄と共に武士の子として厳しい教育がなされて育った。小学校教師を務めた後に海軍兵学校へ入学、卒業後の1894年には日清戦争へ従軍した。ロシアへ留学し、現地の駐在武官を務めた経験もあることから、ロシア通の軍人として活躍した。
そんな彼が、日本における軍神第1号とも称されるほどに英雄的存在と見なされるきっかけを作ったのは、日露戦争でのこと。1904年に始まったこの戦争において、ロシア太平洋艦隊は旅順(現在の中国大連市)とウラジオストクの港を拠点としていた。
日本がこの戦争で勝利をおさめるためには、特に旅順は確保しなければならない場所となっており、このため「旅順港閉塞作戦」が計画されることとなった。
2月18日、東郷平八郎司令長官によって作戦が発令された。これによって第1回の旅順港閉塞作戦が実行されたが、旅順砲台の猛攻にあったために失敗に終わった。
この時、広瀬は報国丸の指揮を執っていたが、船が砲撃を受けて炎上したために脱出、その際、デッキの壁に白いペンキで「余は日本の広瀬武夫なり。今回は第1回目のみ、この後幾回も来たらんとす」というロシア語のメッセージを書き残していったという。
3月18日、第2回目の発令がなされ、広瀬は福井丸の指揮に任ぜられた。
同月27日、福井丸をはじめとした千代丸などが旅順港へ突入し、哨戒艇に発見されて探照灯が照射される中、鑑定と砲台からの猛烈な攻撃が浴びせられた。広瀬が指揮する福井丸はそんな中でも果敢に突進したものの、船頭に敵艦の魚雷を受けて身動きが取れなくなったことを皮切りに、集中砲火されることとなった。
総員退去を命じた広瀬であったが、部下の一人であった上等兵兵曹・杉野孫七は、流れた機密文書が敵軍に渡ることを危惧、自爆用の火薬を爆発させるために沈みゆく福井丸へ乗り込んでいった。
上官として、杉野が戻るのを待っていた広瀬であったが、杉野が戻ってくる気配がなく、ついに広瀬自らが船の中へ入っていくこととなった。結局、3度船内を見回って杉野の姿が見られなかったことから、入れ違いになったと思い船上へ戻ることとなった。
だが、脱出ボートへ移ろうとしたその瞬間、広瀬の頭部に放たれた敵砲が直撃、そのまま広瀬は37歳という若さで亡くなった。
杉野については、その後も遺体が発見されることがなく、一時は生存説も噂されたものの時を前後して戦死したものと考えられるようになった。そして広瀬の遺体は、ロシア軍により発見され、戦争中でありながらその栄誉を称えられ丁重に埋葬されたという。現在は、青山霊園に墓所がある。
なお、旅順港閉塞作戦は第3回目も実施されたが失敗に終わっており、その後乃木希典率いる第三郡の総攻撃によって1905年、ついに旅順艦隊が完全に無力化されることとなった。
広瀬が軍神として称えられるようになったのは、この部下の身を案じたために命を落としたといういわゆる美談に由来している。
広瀬と杉野は、上司と部下の関係であるほか、性格的にも意気投合していたと言われているが、それ以上に広瀬が、拿捕した戦艦の掃除の際に自ら素手でトイレ掃除をしたほどに人格者と見なされていたことも、影響していたと考えられている。
広瀬は死後、即日に「中佐」に特進し、「杉野はいずこ、杉野はいずや」と歌う『広瀬中佐』は日本国民に広く歌われる唱歌ともなった。かつては旧国鉄万世橋駅前に広瀬と杉野の銅像も建てられていたが、第二次大戦終結後に撤去され、現在万世橋駅跡であるJR神田万世橋ビル正面玄関前には、かつて存在した銅像の名残として白いポール状のオブジェが建てられている。
【参考記事・文献】
・https://rekishi-ch.jp/column/article.php?column_article_id=34
・https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2024/03/26/16820
・https://x.gd/a6aOw
・https://trafficnews.jp/post/125066
・https://meiji.bakumatsu.org/men/view/5
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【文 ナオキ・コムロ】
画像 ウィキペディアより引用