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裕次郎や渡哲也に非礼を…「舘ひろし」石原プロ入社したては生意気だった!?

舘ひろしは、俳優や歌手(シンガーソングライター)として活躍する人物である。

かつては石原プロモーション所属であったが、2021年石原プロの解散に伴い、2020年末より芸能プロダクション「舘プロ」を設立、所属俳優として活動を続けている。

お笑い芸人の猫ひろしの芸名は、彼の名をモジったものだと言われている。

舘ひろしと言えば、初主演作『西部警察』をはじめとして、『あぶない刑事』『刑事貴族』など、刑事ドラマの出演が非常に多く、またバイク好きということもあって作中にて乗りこなす姿も印象的だ。元々彼は、1974年に岩城滉一をサブリーダーとして「クールス」といういわば不良のバイクチームを結成、リーゼントに黒の革ジャン、青もしくは黒のジーンズでバイクに乗るそのスタイルに、当時多くの若者が憧れた。

このクールスが注目されるきっかけとなったのは、ロックバンド「キャロル」の解散ライブで親衛隊を務めたことによる。

キャロルといえば矢沢永吉率いる伝説のバンドであり、なんとクールスの起用は矢沢本人からの依頼であったという。このことは、クールスのロックバンドデビューへと発展していき、1975年に矢沢作曲「紫のハイウェイ」でデビューとなった。

実は、この時サブリーダーであった岩城はバンドに参加しておらず、その理由は、彼がすでに俳優として映画に出ることが決まっていたため都合が付かなかったためであった。クールスに先んじて芸能界に入ってしまった岩城は引け目を感じていたそうだが、結果としてこのことが舘と岩城の関係がもつれたきっかけにもなってしまったという。

以降、2018年に行なわれたクールスのメンバーの一人であった玉川雅巳の葬儀で再会したことがきっかけとなり、およそ42年を経ての和解となったという。

歌手としては、1984年にソロ名義で「泣かないで」を発表、第35回紅白歌合戦に出場を果たすほどの大ヒットとなり、2012年には石原裕次郎のカバーアルバムを発表したことで再度紅白出場を果たした。因みに、「泣かないで」のイメージが非常に強いが、1998年には「泣いていいよ」という楽曲もリリースしている。

舘はバンド活動を通して、東映の映画俳優としても頭角を現し、のちに『西部警察』で渡哲也と出会い、彼に憧れを抱いたことで1983年に石原プロへ移籍することとなった。ただ、入社した当時は自身でも「生意気だった」と回想、2018年6月8日に放送された『徹子の部屋』に出演した際には、石原プロに入社したばかりの頃のVTRが紹介され、石原や渡の傍にいながら両者を「トッポイ」(不良っぽい)と語る姿に苦笑いする様子もあった。

さらに、ある時の「西部警察」撮影現場では、石原と渡のイスだけが用意されている中で、その横に舘が自分のイスを置いた。これは誰のイスだと石原が訊くと舘は自分のだと名乗り、「10年早い」とたしなめられたというのだが、なんと舘はそれに対し「いやぁ、石原さんそういう時代じゃないですよ」と返答。

そして、返答された石原はというと怒るどころか「そうか、そういう時代じゃないか」と笑っていたという。なお、舘は渡からのちに「お前は石原プロに入ったんだ、渡プロに入ったわけじゃない」と言われ、「石原さん」ではなく「社長」と呼ぶことを遠回しに伝えられたという。

【参考記事・文献】
舘ひろしのバンド(バイク&クールス)のエピソードまとめ!岩城滉一や矢沢永吉との関係は?
https://no-magazine.com/hiroshitachi-band/
舘ひろしが過去の『生意気エピソード』を語る 新垣結衣も「かっこいい」とメロメロに?
https://grapee.jp/669997
舘ひろしが振り返る石原プロ“豪快”伝説
https://www.dailyshincho.jp/article/2021/03261059/?all=1
舘ひろしと岩城滉一 仲間の通夜で42年目の和解、男泣き抱擁
https://www.news-postseven.com/archives/20180125_646825.html?DETAIL

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【文 黒蠍けいすけ】

画像 ウィキペディアより引用