石原裕次郎は、昭和を代表する日本の俳優である。
1956年、兄であり元東京都知事でもあった石原慎太郎の小説『太陽の季節』を原作とした映画で俳優デビューをし、以後日活の看板スターやTVドラマなどで活躍し、特に主演を務めた1957年版『嵐を呼ぶ男』では、彼の歌う主題歌も爆発的な人気を博したことも相まって、タイトル同様「嵐を呼ぶ男」を異名として呼ばれることも多かった。
1981年に解離性大動脈瘤を発症、成功率3%と呼ばれた手術から奇跡の生還を果たしたが、その後にガンを患い、1987年に52歳という若さでこの世を去った。
「嵐を呼ぶ男」の異名に違わぬ彼の伝説や逸話は多々ある。
例えば、1960年に彼はのちの妻となる女優の北原三枝(現・石原まき子)と真剣な交際をしていたが、同事務所内での交際がタブーであったこの時代、反発した裕次郎は彼女と共にアメリカへ駆け落ちしたものの、元日活社長が電話をすることで帰宅を説得、その帰国した羽田空港の控室で記者会見が開かれた。
芸能人による記者会見は、これが最初であったと言われており、この時裕次郎は元々結婚の意向を伝える予定であったものの、記者の失礼な質問に「答える義務が?」と腹を立てた。
また、芸能人が「正月をハワイで過ごす」というイメージを生み出したきっかけは裕次郎であったと言われている。今では、風物詩として珍しい事ではなくなった人気・大物芸能人の”正月ハワイ”であるが、石原はハワイに別荘やヨットを持っており、時間があればたびたびハワイでゴルフやヨットを楽しんでいたという。
そのうち、石原軍団のメンバーを引き連れて、また交友のある人々を連れて正月にバカンスを楽しむというスタイルが恒例となっていったのだという。その様子は、当時の正月特番でも放送されたほどであったそうだ。
このような、芸能界のイベントや出来事のルーツを生み出したと言われる石原裕次郎。石原プロ恒例の炊き出しも、最初に考案したのは裕次郎であったそうだ。他にも、彼自身の芸能活躍にまつわる風変わりなエピソードも少なくない。
過去、彼と13曲ほどデュエットをしてきたという八代亜紀によれば、彼は水割りを飲みながらレコーディングをしていたという。彼はスタッフに対して、「良かっただろう」と言ってはいたが、ことごとく水割りの中で動く氷の音が入ってしまっており、NGが連発してしまったという。実際、彼は大の酒好きとして知られており、休暇中には朝からビールを飲み、また撮影所には「ビールは水」との名目でビールを冷やす冷蔵庫が置かれていたと言われている。
ただその一方で、日活時代から劇中で歌うことも多く歌手として数多くのカバーもしてきた裕次郎だが、コンサートなど人前で歌を歌うことについてはきわめて消極的で、むしろ嫌っていたそうだ。ジャーナリストの佐瀬稔によれば、テレビの前で歌うのは緊張で胃が痛くなる、中森明菜のような芸当は自分にはできない、という旨の返答を裕次郎本人から聞いたという。
紅白歌合戦は、第8回の際にゲスト出演をしたことがあったものの、歌手として出場することはついに無かったという。このことは昭和の大スターと呼ばれた石原裕次郎の、意外な一面と言えるかもしれない。
【参考記事・文献】
日本で最初に記者会見を開いた芸能人は石原裕次郎
https://convenience.typepad.jp/naze/2014/03/%E8%A8%98%E8%80%85%E4%BC%9A%E8%A6%8B.html
石原裕次郎
https://dic.pixiv.net/a/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%A3%95%E6%AC%A1%E9%83%8E
往年のスターがきっかけ!?年末年始ハワイ取材のルーツとは?
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/7c808d55b5cea4f59b267afff119063bada9d288
石原裕次郎さんに「異人種」と言わしめた〝多重人格〟中森明菜「自分の中に幾人もの自分が…それぞれ別人格」
https://www.zakzak.co.jp/article/20230711-6CB6DW2VA5I7XPKFHQ3BV3SO54/
やっぱりすごい!石原裕次郎の歌・数多くのヒット曲ベスト20♪
https://entertainment-topics.jp/67041#headline_4304090
【アトラスラジオ関連動画】
【文 ZENMAI】
画像 ウィキペディアより引用