辻村寿三郎は、人形作家および人形操作師として活躍した人物。1973年にNHKで放映された人形劇『新八犬伝』では、作中に登場する400体を超える人形をすべて製作、そのじっとこちらを凝視するような大きな目と、今にも語りかけてくるようなその独特の出来栄えから注目されるようになった。
2023年に89歳で亡くなるまで精力的に活動を続け、2017年には漫画家・尾田栄一郎の作品『ONE PIECE』とコラボし、キャラクターたちの人形を制作するなど、多様な人形作りを行なっていた。
独特のなまめかしさと美しさを備えた彼の人形は、寺山修司に「お前の人形は俺の全部を知っている気がする。そういう目をしている」と言わしめた。東京の日本橋人形町に建つ「ジュサブロー館」には、「目玉座」と呼ばれる人形劇の芝居小屋が設置されているが、この名前は寿三郎の人形名の特徴でもあるその大きな目玉を元に寺山修司が命名したものである。
彼は、満州国が成立した翌年に生まれ、満州が無くなる前年に日本へ引き揚げたことで、「私のためにあの国があったようなものですよ」と語っている。小さい頃から、割り箸と新聞紙、布などを使って人形作りを楽しんでおり、当時の風潮もあってか母親からは女々しいと何度も叱られていたが、頑なに人形作りをやめなかったという。
彼は実のところ養子であった。実の母親は、日本で彼を身ごもったものの満州で捨てるつもりだったらしいが、辻村夫婦のところへ養子となったことで命拾いをしたのだという。しかし、彼が命拾いをしたのはこの時ばかりではなかった。
1944年、日本内地よりもずっと豊かで平和であった満州で暮らしていた彼は、どういうわけか母親に”帰りたい”としつこく迫ったという。息子が言うのだからと母親はそれを聞き入れ、同年春ごろに釜山から定期便の船に乗って日本に到着したのだが、その後の便からは船が機雷に攻撃されることが多くなり、実質寿三郎たちの乗った船が安全に乗れる最後の定期便となった。しかも、彼が去った満州はソ連軍が協定を破って侵攻したという事情もあり、生きながらえたのは非常に幸運であった。
だが、不思議なことはまたしても起こる。日本へ渡ってきた彼ら母子は、母の姉が住む広島市で暮らし始めるようになった。ところが、友達もできた寿三郎であるが、次第に引っ越したいとせがむようになったのだ。そうして母子は、県内の三次へ移り住むようになったが、なんとその4ヶ月後に広島市へ原爆が落とされた。
彼によると、満州から日本に帰りたいと駄々をこねた理由も、広島市から引っ越したいと言い出した理由も、なぜそう思ったか自分でもよくわからず、彼自身「勘としか言いようがない」と語っている。
そして、彼のこの戦争体験はその後の人形師としての道を決定付けるきっかけにもなった。
彼が自分の原点だと称する、とある2体の人形がある。それは、15歳くらいの少年と10歳くらいの少女の人形であり、少女は胸にネコを抱き、2人ともボロボロの服で髪はボサボサ、ひどく汚れた顔をしていた。この2体の人形は、彼の30歳前後初期の作品であり、しかも実際の人物がモデルとなっていた。
広島に住んでいた頃、寿三郎は同じ満州からの引き揚げ者であった”みっちゃん”という女の子と仲良くなった。原爆が落とされてから後日、彼はみっちゃんを探しに広島へ1人で足を運んだ。情報が無くあちこち探し回った末、原爆ドーム近くでみっちゃんとその兄と再会、みっちゃんは死んだネコを抱えており、およそ一年ほどで2人とも亡くなってしまったという。
その兄妹をもとに作られた人形というわけだが、作品展に出展したところ「被爆した子どもを人形で表現するとは何事か」といった非難や、「イデオロギーで人形を作っている」との激しいバッシングが起こり、長らくこの2体の人形は封印されることとなってしまった。
辻村の作風は、生きようとする強い目の輝きを主軸にしていると言える。
『平家物語』においては、主役級の人物ではない、モブとも言えるような女性たちを掘り起こしては人形にし、実際にゆかりの地へ足を運び生きた痕跡を探していたほどの探究力であった。寿三郎の人形が、生きているような顔立ちに一段と輝く大きな目をしているのは、彼が人形に込める「人間の生」の情熱が並々ならぬものであったことを物語っている。
【参考記事・文献】
梯久美子『昭和二十年夏、子供たちが見た日本』
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