立川志の輔は、落語家をはじめタレント、司会者として活躍する人物。立川談志の弟子の一人として知られ、またテレビ番組『ためしてガッテン』(のちに『ガッテン!』)にて長期に渡り司会をつとめた。
社会人時代、「談志ひとり会」で彼の『芝浜』を見たことがきっかけで談志のもとへの入門を決意したが、1983年の入門直後、談志が突如落語協会を脱退した。このため、志の輔は一度も寄席を経験したことがない。
談志は彼を「寄席を経験していない弟子第1号」または「立川流の実験台」と位置づけていたという。その後、志の輔は真打昇進まで10年はかかるという落語界において7年という異例のスピードで成功をおさめ、談志本人も「立川流の最高傑作」と評した。
因みに、「談志の弟子第1号」という言い方がなされることもあるが、正確には談志が落語協会を脱退してからの最初の弟子であり、談志の初めての弟子は1967年に入門した十代目土橋亭里う馬(当時・立川談十)である。
彼の落語との関わりは明治大学の学生だった時代。入学時のサークル勧誘で落語を見たことがきっかけで、落研に所属することとなった。その当時、彼が名乗っていたのは「紫紺亭志い朝」という芸名だった。
実は、この芸名は明治大の落研でも代表的な名跡として残っている。志の輔は五代目であるが、先代である四代目は三宅裕司だった。志の輔がサークル勧誘で落語を観覧していた際、三宅も高座に上がって落語を披露していたという。
志の輔は談志の門を叩く前に劇団研究生だったこともあるが、演劇に興味を持つようになったのは、この2つ上の先輩であった三宅の存在が大きかったという。
なお、志の輔の後にこの名跡を継いだ六代目がなんと渡辺正行であり、過去にはこの四・五・六代目の3人が揃っての「志い朝の会」も行なわれたことがある。
因みに、志の輔が渡辺に襲名する際、こんなトラブルがあった。志の輔が卒業を控えていた頃、彼を心酔していた渡辺がどうしても高座名を継ぎたいと言い、その後寿司屋でご馳走になって泥酔した渡辺は志の輔のアパートに泊めてもらうことになったのだが、志の輔はベッドに、渡辺は志の輔が落語の練習で使う座布団を敷いて眠りについた。
しかし、真夜中に目覚めて寝ぼけていた渡辺は座布団の上で寝小便をしてしまい、そのまま座布団を洗濯機に放り込んで再び眠りについたという。朝になり、渡辺は起きて部屋を出ようとしたが、結局志の輔に洗濯機の中の座布団がバレてしまい、事の顛末を正直に話した末に無事襲名をしたという。
【参考記事・文献】
・https://audee.jp/news/show/118645
・https://dic.nicovideo.jp/a/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E5%BF%97%E3%81%AE%E8%BC%94
・https://www.meijiochiken.com/ob/index.html
・https://bunshun.jp/articles/-/67889
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【文 ナオキ・コムロ】