1950年代に「脱線トリオ」の一人として名を世に広め、その後は東北弁を駆使した言い回しやギャグでお茶の間を沸かせるようになったコメディアンといえば由利徹。「オシャマンベ」といったのギャグや、パントマイムによる裁縫芸などが有名だ。
代表的な弟子のとしてたこ八郎がおり、彼がまだボクシングで活躍していた頃に弟子入りを志願された際、取る気がなかった由利が「チャンピオンになったら弟子にしてやる」とたこに言ったところ、その後本当にチャンピオンになったため弟子入りを許したという逸話がある。
そんな由利のもとに弟子入りを志願した人物には、あの志村けんもいた。彼が、「コント55号」と「ザ・ドリフターズ」のどちらかで迷い、結果として音楽性があるという理由からコミックバンドのドリフを選んだことは有名であるが、その前に彼は由利のもとへ弟子入りをしようとその門を叩いていた。
しかし、その時すでに4人の弟子を抱えていた由利は志村の弟子入りを断り、これによって彼はドリフの一員となる道へと進むことになった。
結果的に志村は由利の弟子になることはなかったが、それでも志村のコメディアンとしてのスタイルには、どことなく由利の影響が見られるという話がある。
前述した、由利の定番のギャグ「オシャマンベ」は、「オシャ」で腰を落として「マンベ」で足を開くという動きのギャグであり、かつ(特に「マンベ」の部分で)どことなく”卑猥さ”をかもすものでもあった。
卑猥さを盛り込んだお笑い・ギャグスタイルは、思い返すと志村にも見られており、バレリーナの恰好で股間に白鳥の首を仕込む姿や、名物キャラ「変なおじさん」のスケベぶりなどにも多く見られる。
また、由利は自身が宮城県出身ということもあり「チンチロリンのカックン」を「ツンツトチイのカックン」と表現するなど、東北の訛りを押し出した言い回しを行なっていた。実は、志村の「だいじょうぶだぁ」の元ネタは福島県に住む親戚の口癖からきており、こちらも東北訛りをギャグとして利用していたわけだ。
その他、その笑いのスタイルが喋りよりむしろ動きを取り入れたものが多かったという点も二人に共通している。
由利徹の存在が、志村けんに多大な影響を及ぼしていたことは間違いないように思える。因みに、志村が弟子入りを断られた際、「大学へ行った方がいいでしょうか」との質問に対して由利が言った答えは、「行ったら気持ちが変わるぞ」というものだったそうで、志村のその後を決定づけたのも由利だったと言えるだろう。
【参考記事・文献】
・https://bunshun.jp/articles/-/44318?page=2
・https://friday.kodansha.co.jp/article/190054
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【文 イトフゆ】
画像 ウィキペディアより引用