森繁久彌は、昭和を代表する俳優、歌手そしてコメディアンとして活躍した人物である。戦前にはNHKアナウンサーを務め、戦後になると映画やドラマの出演が増えたことで活躍の場を広めていき、1997年には『もののけ姫』の乙事主の声を担当するなど晩年もその活動が衰えることはなかった。
2009年11月10日、老衰により96歳で亡くなったが、その貫禄のある老齢の風貌が多くの人々の印象に強く刻み込まれていたため、ネット上では「自分が年を取って死んだ後も生き続けていそう」という話題がたびたび起こっていた人物でもある。
森繁は、長寿トーク番組『徹子の部屋』の第1回ゲストとして出演するなど、黒柳徹子との関わりも深かった。黒柳によれば、幾度も共演をしていた森繁から、会うたびに「1回どう?」と誘われ続けていたという。
当初、黒柳はこの「1回」の意味がわからなかったそうだが、「そのうちに」「今度ね」と受け流し続けたそうだ。それは終生途切れることなく、森繁が亡くなる3年前にも偶然道端で居合わせた際にもあったのだそうだ。
彼女の話によれば、道端に黒い車が止まっており、中を覗くと森繁が乗っていたため挨拶をしようとしたところ、車の中に引きずり込まれ「1回どう?」と言ってきたのだという。彼女はいつも通り「今度ね」と返すと「君は今度今度って言って、いつまでもダメじゃないか」「くしゃくしゃになったら僕嫌よ」と言い、それに「私だって嫌ですよ」と返して別れたのが最後だったそうだ。
生涯衰えることがなかった彼の茶目っ気ぶりを象徴するエピソードであるが、実際彼が後世の俳優やコメディアンに及ぼした影響は大きく、また大御所として祭り上げられようともその人生や生き様を先達めいて説くこともしないその人柄から慕う人も多かった。
黒柳によれば、戦争の話を森繁の口から聞いたことは一度も無かったという。
業界への影響ということで、彼にあやかって称されたフレーズ「森繁病」が生まれたことも注目に値する。この名称は、小説家・評論家として活動していた小林信彦が自著の中で呼んだものが最初だ。
森繁病とは、簡単に言えばコメディアンとして成功した者がその後シリアスな演技をやる俳優へと転身をすることを指す。小林によれば、こうした現象は森繁以後、由利徹を例外として三木のり平や有島一郎などの多くのコメディアンに見られるようになるほどの影響を及ぼしたというのだ。
ただし、森繁はもともとコメディアンになるつもりは毛頭なく、「喜劇的演技」が評価されたというのが実際のところであるため正確には転身とは言えず、森繁病という呼び名そのものが適当ではないのではないかとの意見もある。
とはいえ、コメディアンを今でいう「芸人」と置き換えてもそうした例が現在も散見されるというのは事実として残っている。そのような流れを作り出したという意味からすれば、確かに森繁の影響は強かったとも言えるだろう。
【参考記事・文献】
森繁久彌さん:「終生、誘われ続けた」と黒柳徹子がありし日しのぶ
https://mantan-web.jp/article/20131120dog00m200065000c.html
喜劇の時代 小林信彦『日本の喜劇人』
https://note.com/eto19321225/n/n74003aa6aa4f
アチャラカ、森繁病…戦後期の笑いを批評 1971年を描く 中原弓彦「日本の喜劇人」(晶文社)
https://www.zakzak.co.jp/article/20210615-637RB6Y2X5PQXF7SMYYUM2DDU4/2/
【文 ZENMAI】
画像 ウィキペディアより引用