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シンガーソングライター「松山千春」を世に送り出したラジオプロデューサー

松山千春は、1970年代から活躍する北海道出身のシンガーソングライター。

1977年に「旅立ち」でデビューして以来「季節の中で」ほか多くのヒット曲をリリースし、ANNパーソナリティ、深夜番組「ハロー!ミッドナイト」の司会起用、映画「極道戦争 武闘派」の出演など、音楽以外でも広く活躍した。

幼い頃から学業成績が良く、中学時代は生徒会長をつとめて高校時代もトップクラスの成績だったという。このため、高校の教師から大学進学をすすめられたものの、所属していたバスケットボール部のユニフォーム代を捻出するためにアルバイトをしていたほどに家計が苦しかったために大学進学を断念。高校卒業後に叔父の経営する小料理屋やクラブに勤務し、時間を見つけては作詞作曲を行なっていたという。

1975年、「全国フォーク音楽祭」の北海道大会に出場するも、惜しくも落選し全国に行くことは叶わなかった。しかし、その時に地元STVラジオのディレクターであった竹田健二に見いだされ、「今度一緒にラジオをやろうよ」と声をかけられた。

当初は、単なる慰めの言葉だと思い本気にしていなかった松山だったが、半年ほど経って竹田から電話があった。

なんと、『サンデー・ジャンボ・スペシャル』という番組内で「千春のひとりうた」というコーナーが設けられることが決定。そのコーナーで歌ってもらうから毎週2曲作って来て欲しい、というものであった。その依頼通りに、松山は足寄から収録場所の札幌へ汽車移動しては新曲を披露し、そして足寄へ帰るという生活を一年ほど続けた。

また、STVの社長や専務らの反対を押し切って松山のレコードリリースに尽力したのも竹田であった。

レコーディングのために東京へ連れられ、ついに1977年1月、「旅立ち」で見事デビューを果たした。

8月8日には北海道厚生年金会館で初コンサートを開催。だが、松山の道内ツアー中の同月27日、松山の活躍やデビューを常に後押ししていた竹田が36才という若さで急逝した。

松山は現在でも、竹田のことを《フォークシンガー松山千春をこの世にだしてくれた》恩師と語っている。

【参考記事・文献】
https://www.sanspo.com/article/20240826-A3DN2CLDKBNCPFELXHKVSC3XIA/
https://www.news-postseven.com/archives/20220131_1723262.html/2
https://ameblo.jp/takamine561c/entry-12750895659.html

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【文 黒蠍けいすけ】

画像『プレミアムアルバム「旅立ち~足寄より~」