綾小路きみまろは、漫談家として活躍するお笑いタレントである。50歳を超えてからブレイクをし、本人も自負する「遅咲き」の芸人として知られ、中高年を中心に人気を博している。
中高年から人気の高い毒舌家としては毒蝮三太夫も有名であるが、彼は毒蝮のような「ババア」「ジジイ」という呼び方は一切用いないことを信条としており、内容も皮肉や罵倒というよりは団塊世代のあるあるなどに基づいた悲哀を語るものが多い。
「あれから40年!」というフレーズは特に有名だ。ひところは、サラリーマン川柳からネタの盗作や、カツラ疑惑などで注目を集めたが、盗作については素直に認めて謝罪、カツラであることも正式に認めるといった、誠実な態度が好感を呼んだ。
司会者になることを夢見て上京、キャバレーでの専属司会者という下積み時代を過ごしていた。
その頃は、森進一や桜田淳子の専属司会を務めたこともあり、なんと売れる前のビートたけしとも面識があったという。のちにビートたけしと共演を果たした際には、互いに長年の苦労をねぎらうような一幕もあった。
歌手の専属司会者は、大劇場において曲の紹介だけではなく、ナレーションやインタビュー、つなぎの漫談とかなりの役割をこなさなければならない。綾小路は、そうしていくうちに客を前に自身の漫談で勝負をしたいという気持ちがたかぶっていったという。
そうして漫談家へと転身する上で、彼はどのようにすれば知名度をあげられるかを考えた末に、ある作戦を見出した。
それは、ステージで漫談をする時に録音機を忍ばせ、その音源を他のカセットテープにダビングして配るというものだった。
狙うは観光バス。高速道路のサービスエリアで停車している観光バスを見つけては、添乗員、運転手らに片っ端から録音テープを直接配るという作戦を、妻と共に行なった。時折、注意を受けることはあったものの、「ただであげてるんです!」と言って切り抜けたという。
そうして、次第に「変なおじさんが配っている面白いテープ」と評判が口コミで広まっていき、テープに記載した自宅の電話番号へ注文がかかってくるようになっていったという。時には、1日400本を売り上げたことすらあったようだ。
司会者から漫談まで、彼の喋りに対する熱量は凄まじいものがあった。そもそも、小学生の頃からクラスメイトや先生たちをモノマネや歌・踊りで笑わせることを何よりも好み、徐々に実況やナレーションなどをマネて楽しませていたという。
そうした彼の芸の原点の一つに、歌謡番組『ロッテ歌のアルバム』の存在があったと言われている。彼は、この番組の司会者である玉置宏に強く憧れを抱き、司会者および芸能人になる夢を描くようになり、熱心に玉置のモノマネをしていたとのこと。
また、当時の彼のモノマネのレパートリーの中に、「競り売り」があったことも興味深い。彼の生まれ故郷である鹿児島県東部、父親は農業の傍ら農耕馬の種付で生計を立てていた。綾小路はそうした父親の仕事である馬の種付けを幼い頃から見て育った。
父親は、自分が種付けを手掛けた馬が大の自慢だったようであり、通常よりも二倍ほどの大きさの馬にまたがって街中を歩き、綾小路が小学生のある日の授業参観の際には馬に乗って現れたという。インパクトが非常に強かったため、彼は同級生から「種馬」というあだ名で呼ばれたほどであった。
つまり、種付けという仕事柄、馬の競りというものも存在する。おそらく彼がマネたという競りは、父親の仕事である種付け師に関連してのものであったのだという。彼の喋り芸の原点は、ひょっとするとこうした父親の種付け師の仕事も大きく関わっていたのかもしれない。
【参考記事・文献】
・https://yumeijinhensachi.com/archives/68634
・https://news.a902.net/a1/2008/1204-97.html
・https://x.gd/O41vV
・https://career-report.tokyo/ayanokouji-kimimaro/
・https://x.gd/Vh8on
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【文 ZENMAI】
画像『綾小路きみまろ 爆笑スーパーライブ第1集!中高年に愛をこめて』