深井栄山は、江戸時代中期に活躍した講釈師である。浅草観音の境内にて講釈名を「志道軒」(しどうけん)と名乗り、元比叡山の僧を名乗り歯に衣着せぬ喋りで浅草を湧かせた「講釈師の元祖」とも称される人物である。
仏教界の堕落に憤慨して”辻講釈師”に転業したということを自称していた志道軒は、その歯に衣着せぬ毒舌で浅草の名物ともなっていたという。元僧ということもあってか、その攻撃対象はもっぱら僧侶であった。
その罵倒の数々に、たまたま通りかかって聴いていた現役の僧が気分を害して去ろうとすると、「それそれ、あの入道も身におぼえある一人じゃ」と追い打ちをかけた。
志道軒の攻撃対象は、僧だけではなく女性も含まれていた。聴衆の中に婦人を見かけるや否や、「世の中に、おなごほど愚かで、根性がゆがみ、そねみ深く、かつまた好色なものはおらぬ」とケチョンケチョンに面罵したという。
婦人への喋りはいわゆる下に関わるものが非常に多かったようであり、『源氏物語』に登場する女性たちを完全なる憶測で”品定め”するなど、もはや言いたい放題であった。
さらには、講釈師と言えば、張扇で演台をパンッパンッパンッと叩く姿が印象的であるが、その点も志道軒は風変わりであった。手に持っていたのは男根の形状をした「麻良棒」と称する木彫りであり、それを張扇がわりにトンットンットンッと叩き、開口一番には「さてさて、皆の衆、善男善女に悪男悪女、賢男賢女に愚男愚女」と始まる。
人を食ったとは、まさにこのことだろう。
さて、この志道軒に惚れ込んだ人物には、あの平賀源内もいた。彼は、あまりにも熱狂的なファンであったがゆえか、『風流志道軒伝』という五巻五冊からなる自伝を書き上げた。……と言いたいところだが、内容(要約)は「色の道の修行を積んだ志道軒が、大人国小人国を巡り、大陸へ渡り、女護ヶ島で”男郎屋”を開業、たんまり儲けてから日本へ戻り講釈師となって浅草に現れた」といった調子であり、完全なるフィクションであった。
当然、源内の知識量もあって読み物としては良いだろうが、後世には『風流志道軒伝』の影響によって志道軒の誤った情報が事実として語られるなど、問題も見られた。そのため、志道軒は神秘性を帯びた伝説的な人物として語られることが多く、一方でその実態は謎が多いと言わざるを得ない。
同時代に活躍した講釈師の馬場文耕(ぶんこう)が著した『当代江都百化物』では、「志道軒ガ弁」と題し志道軒の痛烈な批判を記している。その内容はおおよそ、「志道軒という癖坊主に世間の人々は化かされている、やつが描かれた書物(源内のもの?)も全くくだらない、時代が時代なら磔拷問だ、誰か勇士が退治してくれないだろうか」というような怒りに満ち満ちたものであった。
だが、運命のいたずらか、浅草の千住小塚ヶ原にて磔獄門の運命を辿ったのは、文耕のほうであった。
余談だが、山口敏太郎は妖怪「ぬらりひょん」のモデルとなった人物こそ、志道軒ではないかという説を唱えている。似顔絵に見る彼の禿げあがった頭部やその形状が、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』のぬらりひょんなどを見るとかなり酷似していることもそうだが、人を食ったその飄々とした性格などが、まさしくぬらりひょんの特徴と合致しているという点から、この考察はなされている。
現代では妖怪の総大将とも呼ばれるぬらりひょんのその正体は、人々を独特の語りで”惑わす”一人の講釈師であったのかもしれない。
【参考記事・文献】
八剣浩太郎『奇伝江戸人物誌』
風流志道軒伝
https://zaimokuza-shobo.jp/oedo/sidouken/
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【文 ナオキ・コムロ】