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タイガーマスクの紐をほどいた男、”名勝負製造機”の名プロレスラー「川田利明」

川田利明は、全日本プロレスに所属していた元男性プロレスラーである。

90年代における全日本プロレス四天王の一人として数えられ、打撃技を主体とした激しいスタイルから「デンジャラスK」の異名でも知られていた。2010年以降「長期休業」としており、現在はラーメン屋『麺ジャラスK』を運営している。

1982年に高校卒業となった川田は、同校レスリング部で1年先輩であった三沢光晴を追うように全日本プロレスへ入門。アマチュアレスリング国体優勝の実績を持っていた彼であったが、一番下の後輩であった彼の成績は入門後205連敗というものであった。

くすぶり続けていた川田が注目されるようになったのは、1987年8月21日の宮城県スポーツセンター大会にて「天龍&原vs鶴田&ザ・グレート・カブキ」のタッグ選でのこと。

ジャンボ鶴田を超えるために立ち上げた天龍源一郎の「レボリューション」に参加していた川田は、カブキによる毒霧を受けた天龍が場外へ転げ落ちると、突如としてリングインして鶴田に襲いかかった。そこにサムソン冬木も加わって乱闘が始まると、急遽6人のタッグに変更されることに。

結果として、鶴田が川田へバックドロップから体固めでフォール勝ちを収めて終わったが、この試合によって川田への注目度が一気に高まることとなった。

1990年、天龍や冬木がSWSという新団体を旗揚げするに伴って全日本プロレスを離脱。この時、川田の実力を買っていた天龍から声掛けがされたが、川田はジャイアント馬場、および三沢光晴に恩義を抱いていたことから、この誘いを断り全日に残留することとなった。

この天龍たちの離脱は全日本プロレスにとって大きなダメージとなったが、この年ある衝撃的な出来事によって全日本プロレスは新たな熱狂に包まれることになった。

5月14日、全日本プロレス東京体育館大会にて、タイガーマスク(三沢)・川田組と、谷津嘉章・冬木組が対戦。この試合は、三沢がマスクを脱ぎ捨てた伝説の試合として知られているが、この時、マスクに最初に手をかけたのは川田だった。

川田は、タイガーマスクからマスクの紐をほどくよう命じられ、言われるがままにマスク後頭部の紐をほどきはじめ、次の瞬間マスクをとった三沢が素顔を晒してマスクを投げ放った。

この頃から、川田は無骨・寡黙なキャラが形成されていき、頭角を表すようになっていった。

三沢光晴、川田利明、小橋健太、田上明による四天王プロレス時代を迎え、また川田の絡む試合はハズレ無しとのことから「名勝負製造機」のキャッチフレーズも誕生。武藤敬司からは「これまで試合した選手の中で一番上手い選手だった」と言わしめ、スタン・ハンセンも「川田はオレをムカムカさせてくれる」と闘い甲斐のあるライバルとして称賛していたという。

だが、1999年にジャイアント馬場が死去したことで、全日本プロレスの社長に三沢、副社長に川田が就任して間もなく、三沢を中心として所属選手らが全日に辞表を提出、プロレスリングNOAHが設立された。

川田は「看板を捨てきれない」として全日に残るも、この時残っていたのは彼を含めてわずか3人だけであった。

その後、2004年から高田延彦主宰のハッスルという興行に旗揚げから参戦、ハッスルKという新たなギミックを得て、それまでになかったおちゃらけ気味のキャラクターを一時確立するが、そんな彼に突如として訃報がもたらされた。2009年6月、試合中のアクシデントによって三沢が急死した。

これによって、川田は急速にプロレスへの情熱を失っていき長期欠場、そのままリングに上がることは無かった。

因み、これはプロレスの風習とも言われた「引退からの復帰」ということを川田が嫌ったため、自分が辞める時はあくまで休場として扱って欲しいという希望に由来しているという。

寡黙で冗談が通じないという独自のスタイルを築き上げ、名勝負の数々を生み出した彼を、「日本最高の名プロレスラー」と評する声も少なくはない。

【参考記事・文献】
https://briprio.com/martialarts/kawada-toshiaki-history
https://igapro24.amebaownd.com/posts/4825861
https://number.bunshun.jp/articles/-/859827
https://blog.goo.ne.jp/tadapyon_1971/e/bc86f409ce7132e15bbb97e64b83e3b6

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【文 黒蠍けいすけ】

画像 ウィキペディアより引用