幕末、明治維新へとつながる尊王思想などの形成には多くの思想家とその著書が関わっていた。主なものとしては、日本こそが真の”中国”であると主張した山鹿素行(やまがそこう)の『中朝事実』、明治以降の天皇の正統論に多大な影響を与える浅見絅斎(あさみけいさい)の『靖献遺言』や栗山潜鋒(くりやませんぽう)の『保建大記』などがあるが、その中の一つとして知られているのが『日本外史』だ。
「日本外史」は、江戸時代後期に存在した広島藩の儒学者である頼山陽(らいさんよう)が著した書物である。
彼の没後に出版された本書は、藩の財政を立て直すために本書を出版した小藩もあったと言われるほど、幕末において大ベストセラーとなり、それと同時に人々を尊王思想へ向かわせる原動力の一つにもなった。ただし、本書での時代考証・考察については、当時から怪しいとの批判もあり、物語に過ぎないという評価もなされている。
「平治・承久の乱を研究した時、筆を捨てたいほど嘆いた」といった彼の主張があるように、承久の乱によって武士が権力を執る世の中になってしまったことで、古来からの朝廷(皇室)のシステムは崩壊してしまったということから、彼を天皇イデオロギーのイデオローグ(唱道者・創始者)とする意見もある。
そのような、幕末における一大転換のきっかけを生み出した一人とも言える頼山陽は、どのような人物だったのだろうか。
儒学者の父と和歌や書に優れた教養豊かな母のもとに生まれた彼は、幼い頃から学問や詩作に優れ、14歳という若さで「偶作」という詩を作り、学者たちからの注目を浴びたという。18歳の頃には、江戸へ遊学し昌平坂学問所で教えを受けるが、一年で広島へ戻る。
彼にある意味で異変が起こったのは広島に戻って間もなくの頃。1800年、彼が忽然と行方をくらまし、京都に潜伏しているとの知らせで連れ戻されるという出来事があった。理由は定かではないが、どうやら彼は脱藩を試みていたようである。脱藩は、転居・転入届をせずに引っ越すものと喩えられるが、機密漏洩などのおそれから重罪扱いされており、最悪は極刑にすら処されていたという。
重役ではなかったことで処刑は免れたものの、彼はそれから5年ほど座敷牢へ幽閉されることになり、廃嫡(相続をさせない)のほか、江戸から戻ってすぐに結婚した妻を離縁、長男は母のもとで養育など、相応の罰を受けることになった。ところが、彼はその幽閉が逆に学問へ没頭する機会を与えられたようであり、この幽閉時に「日本外史」の草稿を書き上げていたという。
晴れて解放された彼は地元で塾の先生として教鞭をとっていたものの再び脱藩を企てて京都へ出奔、そこで自ら塾を開いた。これには周囲も「もう好きにさせたらよい」と諦めたという。以後、彼は京都にて詩作と著述、特に「日本外史」の手直しに専念することとなり、また儒学者、画家、僧侶、陶芸家、医者など多くの人々と交流を図ったという。そうして、彼が「日本外史」を完成させたのは、草稿から20年ほど経過した45歳の時であった。
そんな彼は、50歳を超えたあたりから体の不調を訴えるようになり、1832年に53歳で死去した。この時、彼は机に向かって座っており、眼鏡をかけて筆を持ったまま亡くなっていたと言われており、その机の上には書き上がったばかりの原稿が置かれていたとの逸話がある。
【参考記事・文献】
小室直樹『「天皇」の原理』
山本七平『現人神の創作者たち』
・https://bushoojapan.com/jphistory/edo/2024/09/22/162139
・https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/raisanyou/raisanyou-nitsuite.html
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【文 ナオキ・コムロ】
画像 ウィキペディアより引用