舟木一夫は、2023年で芸能生活60周年を迎えた日本の歌手である。1963年に『高校三年生』でデビューをし、その爽やかなルックスや歌声から瞬く間に人気歌手となり、同時期に歌手デビューを果たした橋幸夫や西郷輝彦と併せ、「御三家」と称された。
元々彼の「舟木一夫」という芸名は、恩師である遠藤実がそれより前に指導していた橋幸夫が命名されるはずだったが、ライバル社のオーディションで合格したためにそれが叶わず、現在の舟木がこの名前を名乗ることとなった。
デビュー曲「高校三年生」にて、歌謡界としては異例の学生服デビューとなったのには、橋幸夫が舞台で、時折学生服で歌唱していたことから、対抗馬としてデビュー前から決定されていたことであったという。
還暦の際には、赤いちゃんちゃんこならぬ赤い学生服を着て歌唱したこともある。因みに、本曲がリリースされたのは1963年の6月5日であるが、舟木は同年の3月に高校を卒業しているため現役の高校生ではなかった。
人気はまさしくスーパースターのそれと言っても良く、デビュー当時に入居していた都内四谷若葉町の青葉壮アパートには、足の踏み場もないほどのファンレターが部屋に積まれ、アパートを探して訪ねる女性ファンも多かったという。
窓から部屋を眺める女性ファンがアパートに連日のように殺到し、一説には当時修学旅行で東京へ来た女子が真っ先に目指していたのが舟木の住むアパートであったとも言われている。
デビューからわずか3カ月後には「高校三年生」が映画化、1年に15枚のシングルを出すと言った驚異的な多忙さに見舞われた彼であるが、70年代に入ってから歌謡曲が下火になっていったという事情もあり、徐々にその人気も低迷していった。
後年、彼は「完全に仕事のストレスだった」と語っているが、この70年代に彼はなんと3度も自殺未遂を図っていた。
1972年4月7日、彼は宿泊していたホテルから失踪し、別の宿泊先へ移動。「血管に注射を打って死にます」と事務所に電話が入り、チーフマネージャーが居場所を突き止め訪れると、大量の睡眠薬を飲み、静脈に注射器が刺さったまま布団の上で昏睡状態の舟木を発見。
この直後には、ある雑誌にて1970年にも失恋が原因で手首を切っていたことを告白、さらにその後にも「ぼくの歌は死んだようだ」と書いた遺書を残し、自分の首や胸を切るといった行動を起こした。
73年から74年にかけての10ヶ月は体調不良を理由に活動休止となったが、その復帰後には新しい事務所でのトラブルや、弟の事故死、さらには経済的に追い込まれて自宅を売却するといった不幸が次々に襲いかかることとなった。
トップスター級の人気の直後に長く不遇の時代を過ごした舟木であるが、30周年を迎えた90年代には、中高年からの人気が再燃し、現在に至るまでコンサートなどで活躍するに至っている。
引退したとの噂が一部で出回っているようだが、これは2023年に御三家の一人でもあった橋幸夫が引退宣言をしたことと取り違えたものであると思われる。あるインタビューにて、「ここまできたら生涯現役しかない」と語ったその言葉から、過去の不幸も不遇も生き抜いた矜持が垣間見える。
【参考記事・文献】
・https://gossip-history.com/g00328/
・https://asahirubannimo.com/funaki-kazuo-4537
・https://asuneta.com/archives/110062
・https://ameblo.jp/musasinohunakigumi2019/entry-12766811338.html
・https://www.chunichi.co.jp/article/589468
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【文 黒蠍けいすけ】
画像 ウィキペディアより引用