菅原道真と言えば、太宰府天満宮の御祭神であると同時に、「学問の神様」と称され祀られている平安時代の貴族・学者である。平将門や崇徳天皇と並び、日本三大怨霊の一人に数えられていることで有名だ。
当時、まだ12歳という若さで皇位に就いた醍醐天皇は、父親である宇多天皇の遺言を元に政治を執り行い、その際右大臣を道真、左大臣を藤原時平とその体制を固め、「延喜の治」と呼ばれる政治体制を作り上げた。
しかし、元々由緒正しい藤原氏の家系に生まれた時平と、学者一族に生まれてその優秀さから大出世を果たした道真の関係は決して良いものとは言えなかった。
情にもろい面があり、特例として許してしまうことの多かった時平と、学者肌が染みつき理屈第一としていた道真とは、その性格や信条的な面からも不和を起こしてし舞う関係となっていた。関係が悪化した末に、時平は醍醐天皇に「道真は陛下を廃位して自分の娘婿を皇位に就けようとしている」と讒言し、これによって道真は大宰府へと左遷させられた。
その後、道真は二度と都の土を踏むことはなく、衣食もままならない環境の中で無実を訴えることもままならず、左遷から2年後の903年、失意のうちにこの世を去った。
道真の死後、彼が怨霊となって都に災いをもたらしたという逸話はあまりにも有名だ。906年に藤原定国、908年に藤原菅根、913年に源光、さらに、醍醐天皇の皇子・保明親王が21歳で急死(923年)、その息子である慶頼王はわずか5歳でこの世を去った(925年)。
流行り病も見られなかったこの時期に立て続いた死の連鎖は、いずれも道真の左遷に関わったとされる人物たちであったため、道真の祟りではないかとの噂が囁かれるようになった。左遷のきっかけを作った張本人でもある時平も、909年に死亡している。
学者として優れていたためではなく、怨霊を鎮めるために学問の神として丁重に祀られるようになったという話は、今ではよく知られている。それと同時に彼は、「天神様」という呼び名も存在している。
そもそも、天神は特定の神を指す呼び名ではなかったが、現在では天神と言えば道真を指す名称としても定着している。雷神の意味を表す天神が、なぜ道真を指す言葉にまでなったのか。そのきっかけとなる事件が、930年に起こった。
この頃、ひどい旱魃が続いていた。6月26日のこと、平安京内の天皇が政務を行なう御所「清涼殿」にて、雨乞いの儀式を行なうか否かについての話し合いが予定されていた。しかし、昼を過ぎた午後になって愛宕山の上空から黒雲が都を覆い、途端に雷雨が降り注ぐこととなった。
これで雨乞いは不要だと皆が安心するのも束の間、雷雨は激しさを増していき、その1時間後、清涼殿に落雷が発生し瞬く間に火災が広まった。
清涼殿落雷事件と称されるこの事件は、さらに紫宸殿にまで落雷が起こり、宮中は逃げ惑う人々で大パニックとなっていた。大宰府に赴き道真の動向を詳細に時平へ伝えていたという大納言・藤原清貫が被雷によって即死するほか、数人もの死傷者を出すほどの大惨事となったのだ。この3か月後には、醍醐天皇も崩御してしまうが、これは事件のショックによるものであると考えられている。
道真を祀る場所として京都に北野天満宮も存在しているが、これは942年、道真の乳母とされる多治比文子の枕元に道真が立ち、「北野の地に祀ってくれれば報復の心も安らぐ」と告げたとの言い伝えがされたことが建立のきっかけになったとも言われている。
北野では地主神として火雷天神が祀られていたこともあり、これが道真を天神(雷神)と結びつける要因になったとされている。その後、道真を天満天神として祀る神社が各地に建立され、それが湯島天満宮や太宰府天満宮など日本各地の御祭神となっていったということだ。
道真の無念たるや、この落雷事件一つを見ても壮絶なものであっただろう。因みに、現在6月26日はこの事件にあやかり雷記念日となっている。
【参考記事・文献】
日本三大怨霊。菅原道真の怨霊とは
https://colorfl.net/sugawaramichizane-onryo/#i-2
菅原道真の左遷(下)突然死・落雷・疫病…道真の「祟り」で京は大混乱
https://www.sankei.com/article/20140420-LLRIBD3RXBOTXGV3UGOYT5MGPE/2/
清涼殿落雷事件は道真の祟りだったのか?事件3か月後には醍醐天皇も崩御され
https://bushoojapan.com/jphistory/kodai/2024/09/28/84828/2
清涼殿落雷事件―菅原道真の怨霊による落雷の祟り
https://yamimin-planet.com/miyako-kaminari/
「菅原道真」はどんな人物? 学問の神様となったルーツや伝説・神社を紹介
https://news.mynavi.jp/article/20210930-1978876/
【アトラスニュース関連記事】
【日本三大怨霊】崇徳上皇とはどのような人物であったか
【文 ナオキ・コムロ】
画像 ウィキペディアより引用