【日本三大怨霊】崇徳上皇とはどのような人物であったか

第75代天皇であった崇徳上皇は保元の乱で流刑になるなど、悲運の生涯を送ったことが知られているが、一説には晩年に白峰魔王という強大な力を持つ魔物となり、日本に壮大な呪いをかけたという。

その呪いの力は凄まじいまでに強く、平将門や菅原道真と並ぶ“日本三大怨霊”の一角だとも言われている。今回はそんな崇徳天皇の生涯を見ていきながら、魔王と呼ばれるようになった背景や怨霊事件を見て行くことにしよう。

崇徳天皇、幼名・顕仁親王は平安時代の1119年に鳥羽天皇と待賢門院の第一子としてこの世に生を受けた。父の鳥羽天皇が1123年に譲位し鳥羽上皇となったため、わずか3歳で天皇の地位につくことになる。

幼いながらも帝となった崇徳天皇だが、父の鳥羽上皇からは忌み嫌われていたとも言われている。

「古事記」によると、崇徳天皇は鳥羽上皇の子供ではなく、崇徳天皇の曾祖父・白河法皇と待賢門院の間に出来た子供なのだという。つまり、祖父と妻との間に出来た子供であったため、鳥羽上皇は崇徳天皇を嫌悪していたというのだ。

そうなのだとしたら、なぜ鳥羽上皇は天皇の位を崇徳天皇に譲ったのだろうか。

当時、実権を握っていたのは白河法皇である。その威光が反映されたからなのだという。崇徳天皇が白河法皇の子供であるという話は「古事記」にのみ記されている記述で真実の程は不明なのだが、鳥羽上皇と崇徳天皇との関係に相当な問題があったことは事実であったようである。

そして、この父子関係が凄まじいまでの怨霊を生むきっかけとなっていくのである。

【続く】

(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)




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