事件

9度も居城を奪われた戦国最弱(?)の武将「小田氏治」

戦国の武将で「おだ」と言えば織田信長を想像する人が多いかも知れないが、戦国時代にはもう一人「おだ」の姓を持つ大名が存在した。信長の「織田」でなく「小田」と書くその武将の名前は。小田氏治、常陸の小田氏15代当主である。

名君と言われた小田政治の息子そして生まれたが、1545年の河越夜戦にて敗北し、政治が亡くなったことで氏治は14歳にてその家督を継いだ。小田家の衰退はこの時から始まったと言われている。

彼が今日に至って名が知られる最大の特徴は、連戦連敗の戦下手という点にある。このため、彼は戦国最弱の武将と言う不名誉な異名で有名だ。

彼の初陣は1555年。盟主上杉家と共に結城氏を攻めるが敗戦した。翌年1556年には、北条氏と結城氏が小田の領地に攻め寄り、当時領地内にあった海老ヶ島城に救援として向かうもあえなく落城。

この時、小田城も落城されたが、逃げ延びた氏治がなんとか出陣し、その後小田城は奪還される。さらに翌年の1557年には下妻城を攻めるも多賀谷氏に佐竹氏が援軍に入ったことで、ここでも氏治は敗北してしまう。1558年には、上杉の力添えを受けた佐竹・多賀谷両氏によって小田城が落城された、等々。

この初期の戦果から見てもわかるように、氏治は降伏、敗北、そして落城しては奪還を幾度となく繰り返しており、結果的に生涯で9度も居城を奪われている。なぜこのようなことになったのかというと、一番の原因は彼自身の性格にある。

彼は、頭に血が上ると冷静な判断と行動を起こすことができなくなってしまい、さらには一つの目的にあまりにも固執してしまうという悪い癖があった。特に、先祖代々の居城であった小田城への執着はあまりにも強く、このため最悪の結果をもたらすことにもなってしまった。

1590年、豊臣秀吉が強大な兵力を持って北条氏に攻め入り滅亡させるという小田原征伐が起こった。この時、氏治と敵対する佐竹氏や結城氏が豊臣へ参陣していく中で、氏治は目先の利益などには目もくれず、北条氏に頼るほどに小田城奪還に拘り続けていた。

だが、すでに述べたように北条氏は滅亡。また、その小田城への執着による行動が秀吉の怒りを買うことになり、結果として改易を招き、その地位を失うと共にとうとう小田城を奪還する機会をも失ってしまった。その後、小田城は佐竹氏の所領に組み込まれ、関ヶ原の戦いでついに廃城となった。奇しくも、小田城が廃城された1602年は氏治の没年ともなり、これをもって大名家としての小田家は消滅。

自分の城への執着と判断や行動の倒錯、さらに家臣の忠告を聞かないという、ここだけ聞くとあまりにも指導する側に向かないタイプの人物のように思えてしまう。

しかし、細かく見て行くと彼は状況に応じて上杉や北条など同盟先を変えるといった外交力があるとも見え、さらに居城である小田城を幾度となく落城されるも何度も奪還できていたことは事実である。彼を「不死身」「不死鳥」となぞらえられるのも、こうしたことに由来するのだろう。

また、佐竹義昭からも「優れた才覚がある」と称えられたと言われており、なぜか家臣からも強く支持されていたという。特に、普代の家臣であった菅野一族は敵からも称賛されるほどの優秀な家臣であったが、氏治がどのような失態をしても、また息子が討死しようともその忠誠心は変わらなかったという。

理由はわかっていないが、氏治の一途な小田城への思いなどが、そのような人望を高める要因であったのかもしれない。

【参考記事・文献】
小田氏治は何故、謎の人望や人気があるのか?魅力解説!
https://hono.jp/sengoku/oda-popularity/#i-3
小田氏治
https://dic.nicovideo.jp/a/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E6%B0%8F%E6%B2%BB
小田氏治 弱小?異色?負けても何度も復活した戦国大名
https://senjp.com/oda/
秀吉を激怒させた小田氏治の「執着」
https://www.rekishijin.com/38605

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【文 黒蠍けいすけ】

画像 ウィキペディアより引用