尼子氏といえば、因幡、伯耆、出雲など、その最盛期には11もの国を支配下におさめた戦国の大名である。
山陰を中心に覇を唱えた尼子氏であったが、1566年、毛利氏によって攻め込まれ、居城であった月山富田(がっさんとだ)城を退去、それと共に尼子氏の歴史は幕を下ろすこととなる。
しかし、そんな中尼子氏の再興に闘志を燃やす人物がいた。彼の名は山中鹿之助(幸盛)、のちに彼を筆頭として尼子氏の復興に勤めたと言われる10人の勇士は、「尼子十勇士」と呼ばれ知られるようになった。
尼子十勇士が有名になったきっかけは明治時代のこと。明治末期から大正中期にかけて大阪の立川文明堂から刊行された講談本、いわゆる「立川(たちかわ)文庫」の『武士道精華 山中鹿之助』による。「十勇士」自体は江戸時代には既に知られており、1717年に『和漢音釈 書言字考節用集』いわゆる国語辞典の中に、十勇士全員の名前が記載されている。
しかし、それ以前の1677年に刊行された多々良一龍編纂の軍記物語『後太平記』には、尼子十勇士の名称は登場するものの実際に名前が明記されているメンバーは半分にも満たない。そもそも山中鹿之助が活躍していた時代の史料には、「尼子十勇士」の名称すら見られない。
そのメンバーについても、鹿之助をはじめとして秋宅庵之介(あきあげいおりのすけ)、横道兵庫之介(よこみちひょうごのすけ)は、実在が確実となっているが、他のメンバーについては実在の可能性があるに留まるか、そもそもが創作された人物ではないかと考えられている。
例えば、江戸時代中期に著された『常山紀談』(じょうざんきだん)には、山中鹿之介・藪原茨之介(やぶはらいばらのすけ)・五月早苗之介・上田稲葉之介・尤道理之介(もっともどうりのすけ)・早川鮎之介・川岸柳之介・井筒女之介(いづつおんなのすけ)・阿波鳴戸之介・破骨障子之介(やぶほねしょうじ)という具合にメンバーが記載されているが、立川文庫の中に登場するメンバーとは半分以上も名前が異なっており、さらに言えば他の浮世絵や逸話集などによっても構成メンバーの名前が違うことが多い。
では、鹿之助など実在もしくはモデルとなった人物が交えられてはいる一方で尼子十勇士そのものが創作なのだろうか、というと必ずしもそうとは言い切れない。1580年ごろに尼子の家臣が著した尼子氏の歴史を記した『雲陽軍実記』(うんようぐんじつき)という歴史書がある。
尼子氏滅亡直後に書かれた史料として知られるこの書には、「出雲一国の十騎」として十名の尼子氏家臣の姓が記されているという。彼ら十名の名前は、十勇士の名前とは全く一致してはいないものの、その中には鹿之助の再興に呼応した者もいたという。このことから、尼子十勇士はこの十騎が元になっている可能性が高い。
十勇士の名前が全て「之介」であるのも、尼子三傑にも数えられる鹿之助の威光を示すためのものであったのかもしれない(しかし、彼が本当に忠臣であったのかについては戦後になって疑問視されるようになっている)。
因みに、戦国末期から江戸初期にかけての武将真田幸村に仕えていた10人の家臣「真田十勇士」という講談もよく知られた作品として有名であるが、これは真田幸村に対する人気と尼子十勇士の知名度にあやかって生み出されたものであると言われている。
【参考記事・文献】
桑田忠親『日本史の謎と怪異』
真田・尼子「十勇士」の意外な関係④[糞まみれの脱出劇]
https://ameblo.jp/atobeban/entry-11595480811.html
真田・尼子「十勇士」の意外な関係(最終回)[真田十勇士のルーツは出雲十騎?]
https://ameblo.jp/atobeban/entry-11596736322.html
武将列伝番外編組列伝・尼子十勇士(尼子十介)
http://www.gokuh.jp/ghp/busho/g_1002.htm
【ゆっくり解説】尼子十勇士|尼子氏滅亡後に復興に勤めた10人の勇士
https://x.gd/Qp7fJ
(ZENMAI 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
画像 落合芳幾 – 東京都立図書館, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=123666945による