事件

石川五右衛門の師匠「百地三太夫」と伊賀忍者の頭領「百地丹波」の関係

百地三太夫とは、江戸時代の読本に登場する安土桃山時代に活躍した武士また郷士である。

江戸時代中期に出版された『絵本太閤記』などによると、伊賀国の出自である関係からか忍術も非常に優れており、かの大盗賊・石川五右衛門の師匠や、また真田十勇士の一人である霧隠才蔵の師匠として描かれている。

彼自身は架空の人物とされているのが通説であるが、彼を語る上で欠くことのできない歴史上の人物がいる。それは、百地丹波という実在したと言われる忍者である。

伊賀上忍であったという百地丹波は、生没がはっきりしておらず謎が多い人物。一説には、1579年に織田信長の次男・信雄が伊賀に侵攻したことで伊賀の地侍衆と衝突した「天正伊賀の乱」にて、表舞台に現れたとされている。

1581年に、信長自らが5万の兵を引き連れて侵攻し、ついに降伏することとなったのち姿を消しており、この乱によって命を落とした、もしくは逃亡して隠遁したと言われている。

本拠は、現在の三重県上野市にある喰代(ほおじろ)であったとされ、服部氏族の勢力下であったと言われている。喰代百地家の所伝によると、百地丹波泰光という者が武士として京に上った際、空に七つの月を映し出す妖狐が帝を悩ませており、丹波が得意の弓で七つのうちの一つの月を射落とした。それが見事に妖狐であったことから帝より褒美を賜り、以来家紋を七つの月に因んで七曜星とと二枚矢羽根に改めたという。

丹波は、藤林長門や服部半蔵保長と並び、伊賀忍者全体を統べる「伊賀三上忍」の一人に数えられるが、それなりの名家だったという以上の素性はほとんど明らかになっていない。少なくとも言えることは、彼が百地三太夫と同一人物として捉えられることが多かったということだ。とは言え、それについての証拠は特に無く、モデルやモチーフという形で双方が関係しているのかすら不明である。

さらに、丹波には次のような逸話も残されている。『三国地誌』という書物には、次のような伝説が記されている。

昔、百地某という人物(丹波であるとされる)がおり、京に上った時に愛人ができたが、彼が役目を果たして帰国しようとするとその女が慕ってついてきてしまった。妻は怒り、嫉妬によって彼の留守中にその愛人を殺して埋めてしまった。

のちに、愛犬がその埋められている場所へ彼を案内し、掘り起こされた愛人の亡骸に涙して改めて葬った。その場所にシキミを植えたことで「シキミ塚」と呼ばれるようになったという。このシキミ塚とは、現在喰代の百地砦に伝わる「式部塚」のことである。

この喰代の伝承と似た話が、石川五右衛門の話の中にも登場する。

『賊禁秘誠談』によると、伊賀の石川村に生まれた五右衛門が親の病死によって田畑を売り払い、名前を石川文吾と改めて百地三太夫の弟子になった。この時、三太夫には式部という妾がおり、文吾は蔑ろにされていた三太夫の妻に同情し、挙句には密通をしてしまった。

そして、妾の式部を殺して井戸へ投げ捨て、三太夫の妻と文吾は駆け落ちをしてしまうのだ。その後、妻も斬り殺して三太夫の元から持ち出した所持金を奪ったまま逃げ、五右衛門と名乗り盗賊として働くようになっていったという。

この話は、五右衛門がメインとなっているため三太夫がかませ役になってしまっているが、大筋は式部塚の伝承と酷似しているため、おそらくはその伝承をモデルに創作された話であると考えられている。

【参考記事・文献】
戸部新十郎『忍者の謎』

名張ノスタルジー|天正伊賀の乱について  第一次天正伊賀の乱
https://kunio.raindrop.jp/nabari31.htm
百地三太夫
https://dic.pixiv.net/a/%E7%99%BE%E5%9C%B0%E4%B8%89%E5%A4%AA%E5%A4%AB
伊賀忍者の上忍三家など有名な人物について解説。子孫は今でもいるの?
https://nihonshimuseum.com/iga-minja/
織田軍を苦しめた伊賀忍者の頭領・百地丹波(百地三太夫)
https://kusanomido.com/study/history/japan/azuchi/77847/#i-4

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【文 黒蠍けいすけ】

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