妖怪・幽霊

盆踊りの上手な若い娘が生き埋めに…怪奇な噂の多い松江城の「人柱」伝説

松江城は、島根県松江市にある江戸時代の城である。天守が国宝、城跡が国の史跡に指定されており、山陰で唯一現存する天守でもある。

この松江城は、その歴史と共に人柱の伝説が現在でも語り継がれている。その伝説によると、1611年に武将の堀尾吉晴(ほりえよしはる)が築城したこの松江城は、本丸や天守台の石垣工事が非常に難航したと言われている。その際、白の感性を祈願する目的として人柱を立てることとなった。

時期はちょうど盆踊りのころ。吉晴の家臣たちは人柱の対象となる人間を探していたが、そこで決められたのが一番盆踊りが上手で美しい娘にしようというものであった。かくして、何の罪も犯していない娘は攫われ、生きたまま人柱として埋められてしまった。

さて、人柱を立てて以来、松江城には不吉な出来事が相次いだ。吉晴とその子が城の完成前後に相次いで亡くなり、3代目の城主である忠晴は跡継ぎの無いまま早くに命を落とし断絶の憂き目にあってしまう。その後に城主となった京極忠高も就いてわずか3年後に急逝し、1代のみで断絶となってしまったという。

人柱として埋められた娘の呪いと考えるには十分すぎるほどの伝説であるが、松江城にはもう一つコノシロ伝説と呼ばれるものがある。松江藩主についた松平直政(徳川家康の孫)が、初めて天守の最上階まで登ったところ、死に装束の女性の幽霊が突如として現れた。

「この城は私のものだ」と言い放った幽霊に対し、直政は「ならば”このしろ”をくれてやる」と返し、後日家臣に宍道湖の「このしろ」(ニシンの仲間)を供えるよう命じ、それ以来女性の幽霊は姿を見せなくなったという。

おどろおどろしい怪談かと思いきや、地口(ダジャレ)オチというあまりにもとぼけた結末の伝説であるが、この話は当時江戸の城下にてゴシップのように広まり、逸話を集めた文献に多く記載されるようになったという。また、ここで登場するのが女性の幽霊であることから、人柱にされた女性の幽霊と同一視する意見もあるそうだ。

だが、松江城の人柱については実際に行なわれたのかの確認はなされていない。少なくとも、江戸時代の文献においてはこの人柱の話は確認されていないとされている。では、どうして人柱の話が出現したのかというと、松江藩の役人がまとめた『雲陽大数録』(うんようだいすうろく)という統計書に、次のような記録が残されている。

松江城築城の際、本丸の石垣が何度も崩れるという不審な出来事があった。調べてみたところ、この石垣の下から槍先が刺さった人間のドクロが出てきたのだという。のちに、これを丁重に祀ったところそうした出来事が起こることは無くなり、さらにその掘り出した場所から水が湧き出てきたことで井戸を作り「ギリギリ井戸」(ギリギリ:つむじの意味)と呼ばれるようになったという。

役人の残した史料ということで信憑性が高いと見なされ、この掘り出されたドクロが人柱の伝説になったのではないかとも考えられている。

この松江城の人柱伝説は、かつて英語教師として松江に住んでいた小泉八雲が、耳にした話として『神々の國の首都』にも記されている。そこには、ある少女が城壁の下に生き埋めにされたという記載と共に、城が落成してのち、松江で女性の盆踊りが禁止されたという話も語られている。

それによると、盆踊りで女の子が踊ると城山が必ず基礎から本丸のてっぺんまで揺れるのだという。現在でも松江の一部地域では、禁令として残っていると言われている。

因みに、松江城に近い月山富田城にも盆踊りと人柱に関連した似たような話が残っている。そこでは、盆踊りの中から一人の娘が連れ去られ、巫女の予言を元に人柱にされたのだという。その際に、娘の霊を慰めようと大太鼓が叩かれたが、その翌年から同じ時期になると月山から大太鼓の音が鳴り響くようになったのだという。

【参考記事・文献】
松江城
https://japanmystery.com/simane/matuejo.html
第7夜 【松江城】歴代城主を苦しめたのは美しき娘の呪い!?
https://shirobito.jp/article/399
小泉八雲が記した怪異「人柱伝説」 島根・松江城
https://www.sankei.com/article/20220814-J4Y5Y7TJSBPRPABTNLBAEVQ32M/
堀尾家の受難
https://www.matsue-castle.jp/highlight/anecdote
城にまつわる哀しき人柱伝説
https://x.gd/6pxlE

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【文 ナオキ・コムロ】

画像 ウィキペディアより引用