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日本の山村などに存在した性習俗「夜這い」とは

夜這いとは、日本に存在した性習俗だ。古代日本における婚姻手続きの一形態(一段階)と言われており、求婚する相手(主に男性から女性)のもとへ通うものであったとされている。のちに、男性が夜に女性のいる家へ行き、肉体的に交わるというものとなっていった。

夜這いという語は、男性が目指す女性の元を訪れて来たことを告げること、すなわち「呼ばふ」が名詞化したと言われている。

このことは、『万葉集』冒頭にてにて雄略天皇がある女性に対して「我こそは告(のらめ)。家をも、名をも」と求婚の意思をもって告げていることからも見て取れる。非常に古くから習慣そのものは存在していたと考えられており、『古今和歌集』や『日本書紀』の中にある歌に、そうした様相を表すものがいくつか散見されている。

夜這いの研究と言えば、真っ先に思い浮かべるのは民俗学者の赤松啓介だろう。彼は、商行をしていた際の情報収集の中で夜這いを追究していき、漁村や農村などのムラ社会において、どのような形式で行なわれていたかなどを克明に記録した。著書『夜這いの民俗学』などにおいては、赤松自身の夜這いにまつわる実体験も語られている。

農村などにおいて「性」絡みの行ないとは、農作業という重労働の中で合間でなされる(猥談を含んだ)娯楽としての側面があり、かつ村全体における性教育的な役割を担っていた。当然ながらその細かいルールは村ごとに差異はあったというが、例えば初めて性交渉を体験する青年に対して既婚女性や年配女性が手解きを教えるという流れもあり、また地域によっては女性が厄落としのために行なうということもあったそうだ。

若い男の手ほどきは年上の女、そしてその逆も然りといった具合であり、また言わばその声掛けは男からだけに限ったものではなかったという。これも地域ごとに差はあるが、一部女性のみがその対象として開放されているところや、村の全ての女性が開放されていた、というケースも見られるという。

民俗学調査によれば、夜這いは戦後の昭和30年代まで一部村落では残っていたとことがわかっているという。赤松は、結婚と夜這いは異なっており、結婚は労働力の問題と関わり、夜這いはムラの存立のための構造的機能を果たしていたものであると語る。

維新以降、純潔思想や新しい道徳的価値の浸透がなされていく中で、都市部などでは売春街など性的欲求を解消するための資本主義的な整備がなされていった。その一方で山間部といった土地では国家の経済的寄与などが無かったこともあり、これが夜這いが残り続けた要因であったと考えられるだろう。

余談だが、夜這いに絡んだ出来事として津山三十人殺しがある。1937年に岡山県津山市の小さな集落で発生した、集落の住民およそ30人が一人の青年によって殺害されたこの事件は、横溝正史の「八つ墓村」をはじめ、現代の村系都市伝説の設定にも強く影響を及ぼしているものと認知されている。

この犯人であり事件後自殺した都井睦雄は、結核を患ったことで徴兵検査を不合格になったことが犯行の最大のトリガーになったと言われている。その一方で、彼は夜這いにより数人の女性とも関係を持っていたと言われているが、それも結核によってすべて拒否されるようになり、自分自身の尊厳が根こそぎ奪われたと考えるに至ったとも言われている。

夜這いはその性質上、現代的な視点からしても犯罪めいた例も無いわけではない。ほぼ強姦といっていいような事例も無いわけではなかった。その上、現代においても一種のタブー視に近い扱いとなっていることは実際のところ見て取れる。

ある意味、近年において夜這いが認知され出したことの一つに、この津山事件が後年になってより詳細に取り上げられるようになった背景もあったのかもしれない。

民俗学的なテーマとしての「夜這い」いわば「性」は、「犯罪」や「差別」といったものと並び近年まで全くと言って良いほど追究されることがなかった。赤松は、このようなテーマを避け続けた柳田國男などに由来する日本の民俗学に対する姿勢に強い批判を行なっているが、その影響は現代もなお根強いようである。

【参考記事・文献】
赤松啓介『夜這いの民俗学』
赤松啓介『夜這いの性愛論』
礫川全次『異端の民俗学』
加来耕三『性愛と結婚の日本史』

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【文 ZENMAI】

画像 とりすたー / photoAC