織田信長の重臣として仕え、本能寺の変で信長を自害させた武将といえば明智光秀である。生き延びて天海と名を変え徳川家康に仕えた怪僧だったという異説も囁かれる、少々謎めいた人物としても知られている。日本史ミステリーを語る上では定番ともいえる光秀には、彼が隠した埋蔵金が存在しているのではないかとの伝説も残っているという。
徳川の埋蔵金などをはじめとして、日本の武将にまつわる埋蔵金伝説はいくつもある。そんな中でも、明智光秀の埋蔵金は通称「護法救民の宝」という不思議な名称で呼ばれている。なぜこのような呼び名なのかについては、一説には彼が熱心に仏法を信じていた人物であるからだと言われている。
また、彼が生き延びて天海と名を変えて僧侶になったことから仏法によって貧民を救済する志を強く持ち、武将時代に築いた莫大な財産をどこかに隠したという。
問題は、その隠し場所がどこであるかということだ。有力地とされているのはいくつかあり、例えば光秀の城であった亀山城跡や縁のある慈眼寺などが候補として挙げられている。そして、もう一つ候補地として強く支持されているのが琵琶湖だ。
一説によると、彼は本能寺の変の後に安土城を我がものとして、金銀の一部を朝廷や部下・味方の諸将に分け与えたのだという。その後、安土城から近江の坂本場に金銀を運んだが彼は山崎の戦いで豊臣秀吉に討たれてしまった。この時、大阪城を守っていた光秀の重臣である明智秀満がその財宝を琵琶湖に沈めたというのである。
明智秀満には、山崎の戦いで安土城から出陣した際、大津の打出の浜で堀秀政に遭遇してしまったことで退路を断たれてしまうも、愛馬にまたがったまま琵琶湖の湖上を渡り切ったという伝説も持っている。
歌川豊信の浮世絵にも残るこの「明智左馬助の湖水(湖上)渡り」と呼ばれている仰天エピソードだが、1591年に滋賀県大津市の石山寺に奉納されたという「山岡景以舎系図」(やまもとかげもちいえのけいず)が公開され、そこに瀬田城主の山岡景隆(かげたか)と秀満が琵琶湖上で船戦を繰り広げたという記述があり、これが湖上渡り伝説の元になったのではないかと言われている。
この通り、秀満と琵琶湖は強い縁がある。そのため、光秀の財宝が琵琶湖に沈められたという説はそれなりに信憑性があるものとして語られているのだ。しかし、そのような古文書の記述などをもとにして財宝の発掘調査がこれまで何度かなされたものの、現在もなお発見には至っていない。
彼の財宝は、実在するのだろうか、もし実在するのであれば果たしてどこに眠っているのだろうか。実にロマンの尽きない話である。
【参考記事・文献】
明智秀満「湖水渡り」伝説の元ネタ?琵琶湖で水上戦を繰り広げた戦国時代の古文書が公開へ
https://www.excite.co.jp/news/article/Japaaan_120445/
明智左馬之助(明智秀満)の湖水渡り伝説と最後
https://kiiroipanda.com/akechisamenosuke/
明智光秀の埋蔵金は琵琶湖に隠されている?
https://hikari-message.com/20294.html
徳川埋蔵金だけじゃない!戦国武将の埋蔵金伝説
https://www.touken-world.jp/tips/18235/
【文 黒蠍けいすけ】
画像 ウィキペディアより引用