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創作かそれとも事実か?「板垣退助」は本当にあの名言を言ったのか

土佐出身の日本の政治家、かつて百円札紙幣の肖像にもなった人物といえば板垣退助だ。

「国会を創った男」と呼ばれ、明治時代の自由民権運動の指導者として知られる人物でもある。彼の名言として、「板垣死すとも、自由は死せず」のセリフはあまりにも有名であるが、このセリフは本当に発せられたものであるかという疑問は、古くからなされていた。

1882年4月6日、自由党党首であった板垣が党懇親会の演説のため岐阜県を訪れていた。その遊説(ゆうぜい)中に、当時小学校教師をしていた相原という人物に短刀で左胸を刺されるという事件が発生した。傷は浅く命に別状はなかったものの、この板垣暗殺未遂事件は「岐阜事件」「岐阜遭難事件」などと呼ばれており、板垣の件の発言はこの襲撃直後に発せられたものであると言われている。

このことは、事件から5日後の大阪朝日新聞紙面にて、「板垣死すとも、自由は亡びませぬぞ」と叫んだという旨の記事が掲載されたことがきっかけとなり広まったという。

しかし、先にも言ったように彼のこの発言については本当に発言されたものであるかどうか疑問視されている。

一説には、自由党役員であり板垣が襲撃された際に助けた内藤魯一(ろいち)という人物の発言ではないかと言われている。ただし、これは内藤の発言が板垣のものとして挿(す)げ替えられたということではなく、内藤がマスコミに対して「板垣が言ったことにして欲しい」と言ったものであるという。

またこれとは別で、自由党お抱えのジャーナリストであった小室信介(しんすけ)という人物によるものであったとの説もある。このフレーズは、彼が岐阜で講演を行なった際の題名もしくはキャッチコピーとして作られたものであり、それが板垣自身の言葉として拡散されたのではないかというのである。




以上の説によれば、件の言葉は板垣オリジナルのものであるとは言えず、のちに板垣自身が事件を振り返った際、「声も出なかった」と証言していたこともこの事実を補強する根拠ともなっている。

一方で、実際に板垣は発言していたが別のフレーズであったという説もある。それは、事件発生の5日後に御嵩(みたけ)警察署長宛で提出された「探偵上申書」という報告書の記載にあった。当時、自由民権運動をはじめとした自由党の活動は政府当局にとって好ましいことではなく、演説会の会場付近には必ず警察官が配備され監視対象とされていた。

その報告書には、板垣が襲撃にあった直後に出血しながら起き上がり「吾(われ)死スルトモ自由ハ死セン」と発言したと記録されているのだ。当時の警察からすれば板垣は監視対象であったことから、美化されたということは考えにくく、実際に板垣が発言したのではないかと考えられている。

このように板垣のかの名言については、別の人物の発言・フレーズが広まったという説と、実際に言った言葉が若干替えられたという説が、ともに両立されている。いずれも否定しがたい証拠や証言がなされているため、果たしてどちらが真相であるのかは判然としていない。

ただ、ある話によれば負傷した板垣は「痛いので、早く医者を」と土佐弁で叫んだとも言われている。刺された状況を思えばもっとも妥当な反応とも考えられるが、結局のところ謎は深まるばかりである。

【参考記事・文献】
歴史の謎を探る会『じつはウソでした!あの日本史のエピソード』
「板垣死すとも自由は死せず」!?
https://www.jacar.go.jp/modernjapan/p04.html
板垣退助は本当に「板垣死すとも自由は死せず」と言ったのか?
https://say-g.com/topics/2783
板垣退助の名言集|有名な台詞の真相は?エピソードとともに解説!
https://x.gd/N6BSB

(黒蠍けいすけ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

画像 ウィキペディアより引用