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異質な死海文書「銅の巻物」は財宝のありかを記していた?!

20世紀最大の考古学的発見との呼び声も高い死海文書は、1947年ベドウィンの遊牧民の少年によって洞窟の奥にあった壺の中から巻物として発見された。

この後、死海周辺のいくつかの洞窟で見つかった文書は「死海文書」と呼ばれ、当時最古の旧約聖書の写本とされていたレニングラード写本よりも、さらに1000年以上遡る写本であることが判明したのだ。死海周辺の洞窟から発掘された文書の数は数百にも上ったが、その中でも特に異彩を放ったのが「銅の巻物」(死海文書3Q15)と呼ばれる文書である。

銅の巻物は、1952年に第三洞窟と呼ばれる場所から発掘された。死海文書の多くが羊皮紙やパピルスに書かれてあるものであったのに対して、その名の通り(1%のスズを含む)銅にノミなどで文字が彫られ巻かれたものである。発見後、ヨルダン政府から大学へ分析が依頼され1957年から本格的な解読が開始された。

発見から解読開始まで期間が空いているのは、巻物の酸化がひどかったために巻かれた状態を戻すのが困難であったからだ。結果として、巻物をいくつかに分割し文書を再構成することでようやく解読ができるようになった。

巻物の最初の4行には、「アコールの谷にある廃墟のした」「階段、東向きの入口」「40キュービットの距離、銀の金庫と容器」「17タラントの重さ KEN」といった言葉になるとされている。その内容から、銅の巻物は財宝の埋蔵場所を記した文書ではないかと考えられるようになった。

記述されている財宝のありかは数十か所に及び、1960年当時の価値で100万ドルであるとも言われている。しかし、銅の巻物の記載はあまりにも断片的であり、また64ほどの場所の記載が見られるものの、これまで銅の巻物を手掛かりとして財宝を発見した者はいない。

銅の巻物の解読については、様々な問題が挙げられている。先の「アコールの谷」については地名であることが推測されるが、その地名がどこにあったのかも特定できていない。




また他の死海文書と同様にヘブライ語で書かれてはいるものの内容が聖書ではないために、語彙も異なり解読内容が正しいかどうかも断定できないのだ。さらに、「KEN」というギリシャ文字で書かれた文字が、何を表しているのか全く解っていないという。

解読が極めて困難なものとなっている銅の巻物であるが、そもそも財宝は存在しないという説も唱えられている。死海文書を残したのが何者であったのかについてはハッキリとわかっていないが、現在ではユダヤ教の一派であるエッセネ派の人々によるものであるとされている。

しかし、彼らは禁欲主義者であったことから、そのような人々が財宝を隠すといったことをするだろうかという疑問が残る。また、この説についてはより現実的な意見のものもある。

かつてエルサレムにはソロモン王が建てた神殿があったが、紀元前587年にネブカドネザル2世によって破壊、その後第二神殿が建てられたが、70年のエルサレム包囲戦によって第二神殿も破壊されてしまった。

この時、ユダヤ人たちの手で神殿から財宝が持ち出されたのではないかとも言われているが、当時ユダヤ人を率いていたフラウィウス・ヨセフスによれば、ローマ軍が第二神殿に攻め込んだ時多くの財宝が神殿内に取り残されたままだったと証言していたという。つまり、財宝はこの後略奪されてしまった可能性もあるのだ。

このほか、銅の巻物が書かれた時代はローマ帝国の支配に対して抵抗する反乱が相次いでいたことから、ローマ軍の気を逸らせることを目的として、はじめからフェイクで書かれたものではないかという考察もなされている。誰が何のために残したのかが一切わかっていない銅の巻物の内容が、明確に解読される日は果たして来るのだろうか。

【参考記事・文献】
死海文書3Q15(銅の巻物)の宝物の内容と位置!フェイク説も?
https://hatsumeihakken.com/3q15takara/
死海文書とは?誰が書いた?どこにある?内容の簡単まとめ!
https://www.urarekishi.com/2022/10/Dead-Sea-Scrolls.html
死海文書 銅板の巻物に刻まれた財宝の隠し場所
https://www.bs-asahi.co.jp/wild-nature-chikyu/lineup/prg_035-2/

【アトラスラジオ関連動画】

(ナオキ・コムロ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

画像 ウィキペディアより引用