剣豪・宮本武蔵、日本人なら誰しも聞いた事のある名前である。
大河ドラマになった事も記憶に新しい。その武蔵が船橋に来たという伝説がある。吉川英治の小説「宮本武蔵」のワンシーンに、「武蔵が巌流島の決闘の前に、養子・伊織(弟子でもある)と共に、法典ケ原の夜盗どもを切り伏せる場面」がある。それが現在の船橋市の「船橋法典」であるというのだ。
勿論、この伝説は近年創作されたものである。というか、吉川英治が船橋に来て、触発され小説として昭和期に、創作したエピソードなのだ。それが何故だか、古来からあるような伝説として伝わっている。
例えば、「法典の昔話 高橋久雄 昭和58年5月1日 新報社」によると、宮本武蔵が行徳の徳願寺を訪問、藤原玄信と名乗り、僧衣で全国を廻っている最中の事である。その頃の武蔵は一刀三拝(一回刀を振ると、三回拝むという気持ち)の精神で、護身観世音像を持ち歩いていたという。驚くべき事に没年も伝わっており、正徳2年7月24日75才で亡くなっている。
また「藤原新田」という地名はそこから来ているというのだ。吉川英治の小説には夜盗を切り伏せたとあるが、実際の武蔵は農民に混じり、伊織と農業に励んだらしい。
更に徳願寺には武蔵の描いた絵があるという。同寺は、徳川家康の「徳」と本寺の勝願寺の「願」をとり「徳願寺」と名付けされ、1610年に建立された。ここに武蔵の筆による「八方にらみのだるまの絵」が奉納されている。また山門の左手には「武蔵の供養塔」があり、江戸時代行徳の名物であった「笹屋うどん」にも、武蔵が立ち寄った伝説があるという。
これは奇妙な話である。昭和時代に吉川英治が作ったエピソードの「法典ケ原の決闘」に対して、詳細な事実としての武蔵伝説が語られている。これはいったいどういう事であろうか。
実は徳願寺と法典周辺は関係が深い。現在の船橋法典周辺は徳願寺の檀家が開拓したエリアであるのだ。であるからして、同じ武蔵伝説があっても不思議はない。
このように、昭和に作られたエピソードがまるで数百年の歴史がある伝承のように一人歩きしているのだ。
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)