妖怪・幽霊

【実話怪談】水屋敷

 『もう駄目だ、ばあちゃんたちのとこに行こう』
 Hさんが、そう思い、東北の某川に来たのは冬が来る直前であった。

 彼は東京の生まれであったが、両親が事故死し、中学以降は東北の祖母の家で育った。
 「なんの、心配もいらねえぞ」
 呆然とした表情で東北にやってきたHさんと妹を迎え入れてくれたのは、高齢の祖母であった。粉雪が舞い散る夕方であったと記憶している。

 「ばあちゃん、俺たちどうしたらいい」
 Hさんの言葉に黙って頭を撫でつづける祖母。その手は厚く、それでいてあったかい。
 「なんも考えんでいい、ばあちゃんにまかせときな」
 祖母はそう言って笑った。一人息子を失い、同時に孫を二人も背負い込んだ祖母は、日々懸命に働いた。そして、Hさんが就職し、数年後妹が高校を卒業した年の暮れに眠るように逝った。




 「ばあちゃん、死ぬなよ」
 「ばあちゃんが死んだら、わたしたちどうなるの?」
 絶命しつつある祖母にすがりつつ、号泣する兄妹。祖母が労わるようにつぶやく。
 「水座敷であえる。水座敷でな‥」
 祖母はそう言うと、そのまま冷たくなった。

 実は祖母の家から数分の場所に川があった。この川の何処かに水屋敷という不思議な世界への入り口があるというのだ。
 Hさんは、水屋敷の話を祖母が元気が頃に聞いた事があった。
 「水屋敷は、水中にある屋敷でな、亡くなった身内たちと逢えると言われておる」
 祖母のそんな話に 彼は興味を惹かれた。
 「行けるものなら、行ってみたい、水屋敷へと」
 いつかその屋敷にいってみたい。そして、死んだ両親に再会したい‥と切に思った。

 祖母の死から数年、彼は東京の企業で働いていた。
 「なんだね、君はこんなこともできないのかね」
 「はい、すいません」
 無理して入社した企業だけあって、Hさんはついていきかねていた。日々、上司にどやされ、同僚に嘲笑される日々。

 「おまえ、もういいよ、死んだらどう? 一回死んでみな」
 ある仕事の失敗で、上司にそう怒鳴られた時、彼の中で何かが壊れた。
 「もう駄目だ、ばあちゃんや父さん、母さんのもとに行こう」
 彼は会社を辞め、祖母の家に向かった。もはや、住む者もなく、封鎖されている祖母の家を綺麗に掃除し、先祖代々の墓参りをした彼は、そのままフラフラと川べりに向かった。
 既に、妹への遺書も投函している。
(もう想い残すことはない、あとは水屋敷に行くだけだ)彼は目をつぶり、身を水中に躍らせた。冷たい水に覆われていく身体。外界から押し寄せる雑音の渦が遮断され、無音と静寂の世界に落ちてゆく。

 (ああぁぁ、心地よい、これなら楽に逝ける)彼が脳内でそう思った瞬間、網膜に光が反射した。
 (ええっ?こんな水中に光? )
  彼がゆっくりと瞼を開くと、水中にうっすらと光が見える。
 (なんだろうか、あの光)その光の中に小さな屋敷が見えた。あったかい囲炉裏端に、座り込み微笑む人々。

 「ばあちゃん、父さん、母さん」
 その屋敷の中で死んだ祖母や両親が座っていた。しかも、にこやかに笑っている。
 「これが水屋敷なのか」 
 彼は必死に右手を伸ばした。だが、近いようで遠いようで水屋敷には届かない。
 (どうしてだ、どうしてなんだ、俺がこんなにも水屋敷に行きたいのに‥)Hさんが涙ながらにそう言った刹那、水屋敷に座っている祖母がこちらに振り向いた。




 「おまえは、まだ来るな、来るんじゃない」
 「だって、ばあちゃん」
 彼が泣きながら、祖母に訴えた。
 「おまえは、まだ来るな、生きろ、生きろ」
 祖母は怖い顔でそう叱ると、にっこりと笑った。
 「生きなさい、その日まで‥」
 「ばあちゃん」
 Hさんは、絶叫した。その手からどんどん水屋敷が遠ざかる。水泡の向こう側に水屋敷の暖かい灯火が遠ざかっていく。

 ふと気がつくと、彼は河原に流れ着いていた。
 「ばあちゃん、俺まだやれるかな」
 きらきらと星が光る夜空に向かって、彼はつぶやいた。水屋敷とは、人の心に宿る異界なのだ。

(山口敏太郎ミステリーニュースステーション・アトラス編集部)