以前、本アトラスでは江戸時代のゴーストバスターとも言うべき祐天上人について紹介させて頂いた。
彼が晩年に過ごした庵は入滅後に寺号が授与され、現在の祐天寺となった。
徳川将軍家ゆかりの寺として栄え、現在も崇敬を集める祐天寺に参拝した際には、見るべき史跡がもうひとつある。それは、祐天上人の人生において、最も苦戦した怨霊で、最大の難敵であった累(かさね)一族の鎮魂の為に築かれた「かさね塚」である。
祐天上人が浄霊したこの「累一族の怨霊事件」は、その異様な内容から、江戸中の評判を呼び、大きな話題となった。この人気に目をつけた曲亭馬琴が、「新累解脱物語」を発表し、後に怪談でならした噺家・円朝が怪談『真景累ヶ淵』に仕立て上げ、全国区の話となった。
そのため、現在では日本三大怪談として、「東海道四谷怪談」「番町皿屋敷」と並び、「真景累ヶ淵」が数えられている。
今も、境内に整然と、もの哀しげに鎮座する塚は、大正15年に、歌舞伎役者たちが資金を出し合って、累の霊を慰めるために建立した慰霊碑であり、今も「眞景累ヶ淵」を上演する歌舞伎役者や、映画俳優たちが、上演中の祟りを恐れ、参拝している。あまりに整然とした佇まいに、筆者も訪問した時に、探し出すのに苦労した記憶がある。
なお、累関連の巨大な壁画も境内にあり、怨霊事件の様子がありありと描かれている。21世紀の今に至っても、かさねの怨念は健在なのだ。
因みに、祐天上人の遺骨が、江戸の裏鬼門という結界を護る為に使用されたことは前回の記事で既に述べたが、実は遺骨は、遺言によって弟子たちの手で分割され、もう一箇所、運ばれた先があった。それが、「累一族の怨霊」が眠る、茨城県水海道市であったのだ。
なんと祐天上人は、己の遺骨を持って、怨霊との最終決戦に挑んだのだ。
恐るべき執念、恐るべき根性。まさに最高峰の僧侶と、日本の三大怨霊の激闘に相応しい話である。
(監修:山口敏太郎 ミステリーニュースステーション・アトラス編集部)
真景累ヶ淵