【芸能伝説】神事から学ぶ日本人の本質

日本という国は、古来より多くの神事が行われてきた稀なる国である。

アトラスではいままでに神事に関していろいろとお伝えしてきた。例えば、「握らないおにぎりが広がると日本の結界がやばい」や「建て替えに纏わる歌舞伎座の呪い、ビルのために神が降臨できない!?」などである。「相撲は日本を守護する結界であった」と紹介もしたが、この相撲に関しては「日馬富士、暴行で引退勧告!?抱き茗荷紋の呪いは多くの有名人も犠牲に」という今週とても大きな事件が発生している。

宗教儀式として神社にて神主が行う神事とは別に、伝統芸能という形で庶民の間でも神への奉り事が行われてきたのだ。言い換えれば、日常生活において無意識のうちに神事が代々継承されてきたわけであり、日本文化そのものが神道と関連が深いと言える。

例えば、歌舞伎や能は単なる伝統芝居ではなく“神芝居”である。

歌舞伎役者や能役者は、天照大神(アマテラスオオミカミ)の岩戸隠れの際、踊りで神々の乱痴気騒ぎを盛り上げた天宇受賣命(アメノウズメ)の子孫であると解釈されている。つまり、この世に光を取り戻した功労者の霊脈なのだ。その役者たちが、神々を舞台という名の社に降ろし、神の言葉を台詞として代弁し、この世を浄化する。

それが本来の歌舞伎や能・狂言の役割であった。その片鱗は今も能や歌舞伎に垣間見ることができる。現在、都内の各所で貼られている「防犯ステッカー」は歌舞伎の隈取りである。この隈取りは、文字どおり魔除であり、犯罪者という魔物に“睨み”を利かせているわけだ。

他にも、歴代の團十郎が六方を踏むのは地鎮の行為だし、四谷怪談と赤穂浪士を交互に上演することで“陰陽”のバランスをとっていることもわかる。また、狂言の舞台に松が描かれているのは、松が神の依り代として解釈されて来たからであり、正月に福の神を招くために門松を立てるのと同じ理由である。

そもそも、能において翁(おきな)と媼(おうな)という面は、神々を召還するための通信機の役割を持っている。つまり、歌舞伎と能、狂言は日本人にとって神々との交信ネットワークであったのだ。

だが、どうだろうか。昨今の狂言や歌舞伎におけるスキャンダルの数々を見てみると、神事に程遠い低レベルな言動が目につく。和泉元彌と和泉流職分会の宗家継承を巡る争い、また市川海老蔵が元暴走族に殴られ、被害者となった六本木殴打事件など、我々ファンを失望させた事件があった。もはや、神事とはいえないのは明白であろう。

また、日本の昔話さえも神事であると言うと皆さんは驚くであろうか。思い出してもらいたい。いつも昔話の“語り”で、使用されるオープニングの決め台詞、「昔、あるところに、お爺さんとお婆さんがいました」という言葉も、翁と媼による神々の召還を意味している。言い換えれば、“語り”という言霊の連打で、この国を鎮撫するのが昔話を語る行為の真意である。

それをありのままに表現しているのが「桃太郎」である。この「桃太郎」を語ることで、日本の風水的な結界が言霊で強化され、子供たちに本能的に風水の教育が施されるのだ。

十二支を時計周りに配置してもらいたい。桃太郎が攻めた鬼は鬼門(方位で言うと北東、時計の時間に置き換えると深夜二時前後)におり、配置された十二支のうち牛と寅が該当する。鬼が牛の角を持ち、寅のパンツを履いているのは偶然ではなく、霊や妖怪が深夜の二時に出現するのも偶然ではない。




逆に配置された十二支のうち桃太郎の家来になった猿、鳥、犬は、裏鬼門(方位で言うと南西)にいる。つまり、裏鬼門が鬼門の鬼を討つという配置がなされている。また、お爺さんが山に芝刈に行った山とは、風水上、北に配置される山であり、お婆さんが洗濯に行った川は、風水上、南に配置される海である。

勿論、桃はイザナギがイザナミに投げつけた“魔除の桃”を意味している。つまり、我々日本人は子供に聞かせる昔話さえも巧妙に風水的仕掛けを施してきたのだ。

だが、この昔話はアニメや漫画の前に消えつつあるのが現状である。また、再評価されつつある短歌や和歌などは“良き言葉を言挙げする”ことで、言霊の力で世を鎮めるひとつの呪術であり、日本語の乱れを直すきっかけとなりつつある。

昨今、この短歌や和歌は愛好する人の数が増え、盛り上がりつつあるので嬉しい限りである。

(山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーション・アトラス編集部)

©写真素材足成

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